【第3章 坐禅の効用って?】
―――― 瞑想と坐禅の違い ―――― から想をえて
「瞑想」と「坐禅」の間に確たる境界はありません。
坐禅のその初期段階は瞑想に非常によく似ていますが、瞑想の延長線上に坐禅があるのではなく、瞑想の発展的なものが坐禅なのでもありません。そも、瞑想と坐禅ではその取り組みの初志が異なります。私は、坐禅が瞑想の上位概念だなどとか、高踏的な上から目線で瞑想を語ることはしたくありません。瞑想と坐禅ではその役割分担が異なる、と思うからです。
今日、瞑想は非常に盛んになり、瞑想に重きをおいたヨガとかフィットネスとのコラボレートとか、いろいろなパターンのものが生まれているようです。これも、米国などで「マインドフルネス」に代表される瞑想が非常に注目されていることによるのかも知れません(因に、「マインドフルネスは米国から日本への逆輸入」などという人がいますが、日本から米国へ瞑想を輸出したことはありません。米国へ渡ったのは、あくまでも「坐禅」です)。
本章の藤田一照さんの「六種類の感覚の窓――眼・耳・鼻・舌・意――から入ってくるインプット」は「四種類しかないパソコンプリンターのカラーカートリッジ」が「あらゆる色をかなりリアルに印刷できる」という比喩は大変言い得て妙だと思えます。
私どもがやっている臨済禅では「数息観」という方法を坐禅中に行います。それは、自分の呼吸を静かに(坐禅中ですから当然ですが)数える、という方法です。すなわち、一呼吸で「ひとーつ(『いーち』でもいいのですが)」、次の呼吸を「ふたーつ」というように、百を目指して数えていきます。そのことによって、坐禅中の集中力を養うのです。なぜ、呼吸なのか? それは、このブログの一連の輪読会の紹介の第77回の中で、伊藤比呂美さんが奇しくも「『息』で、それだけで一項目立ててしまうのがすごい」と感嘆されておられたように、この「呼吸」を大変重要視し数息観というものを編み出しているからです。この中で一照さんも「body(=からだ)とmind(=こころ)の橋渡しをしているのが息だから」とおっしゃられておられます。そしてさらに一照さんは、「『調身』・『調息』・『調心』が坐禅の極意」ともおっしゃられておられます。
人体の生命維持に直結している生理的な運動の中の、心臓の鼓動や消化器官の蠕動運動などのように自律神経系で制御されている運動に対して、呼吸はほとんど唯一、自分の意識でコントロールできる運動なのです。動物としての自己保存本能に直結するような作業を自分の意志でコントロールする、という生命体としての根源的な作業を数息観ではコントロールしようとしているのです。それでも、数息観の最中でも眼を閉じることもしないし、耳を塞ぐこともしません。すなわち「六種類の感覚の窓(六根の窓)」は開け放たれて外界と一体になっているのです。
さらに言えば、上で数息観が「百を目指して数え」ると申しましたが、この百まで数えることに慣れて、その間、雑念・妄念を自身で殆ど制御できると感じられるようになったら、次の段階で、それを今度は「十まで」とします。ここで逆に短くするのは、この十まで数えている間は、雑念・妄念は須く排除するのです。これが結構難しい作業で、些かでも雑念・妄念が挟まったら潔く一に戻る、それを徹底的に行います。そして、この訓練も完成できたなら次の段階は、今度は「何も数えない」、即ち呼吸だけになるのです。この辺の段階的作業のことを一照さんは「人間が考え出したメソッド」として難詰されておられるのです。
藤田一照さんの提唱されておられる「人の内面の自然的な動きと天然自然の律的な動きを同期させて禅の高みへと止揚させよう」(大変独善的な解釈と表現で恐縮ですが)という“行”は、これまで筆者がやってきた禅修行に新たな地平の展開を提示して頂いたと、非常に感謝しております。しかしながら、曹洞系の禅修行と臨済系のそれとを対比し、敢えてその彼我のギャップをピックアップしてディベートする、という方向には違和感を禁じ得ません。
仏法の下で行じる曹洞系と臨済系の坐禅に如何程の違いがありましょうや。その目指している処は一緒のはずでしょう。