西村恵信さんは、元花園大学学長で、仏教の研究に限らず、米国留学時にはキリスト教の研究もされた、宗教に関する非常に幅の広い研究エリアをもった学究肌の方です。現在は「禅文化研究所」の所長をされておられます。
この本は、大変刺激的な表題ですが、その表題が示す通り人間の「生」そのものに深く関わる「禅の言葉」をピックアップし、それについて解説されております。
< 外からもらったものは、わが家の宝ではない >
「生まれつきの自分の中に具わっている持ち前を大いに発揮してこそ、大きな働きができるのだ」ということ。まず親から産みつけられている本来的な力がどういうものであるかを、自分自身の手で確認しなければならない。そして次にそれを現実生活の中で、大いに活用しなければ、せっかくの宝の意味がない。
< 成らぬことは一つもない >
石に抑えられた筍(たけのこ)は、斜めになっても伸び続ける。断崖絶壁に咲く花も、例え逆さまになっても咲こうとする。そこに、自然の生命力を見る。このごろの人には「耐える力」が失われつつあるように思える。雨垂れを見よ、継続して落ちるうちに遂に岩をも穿(うが)つではないか。まさに「継続は力なり」だ。
ドイツのある大修道院に滞在していたとき、そこの修練長から面白い話を聞いた。修道院の生活は単純極まりないものである。それに耐えていくことで「従順」の精神が養われていく。あるとき若い修道士が入門してきた。彼を指導する役目の修練長が、彼に、立ち枯れになって久しい庭の木に毎日「水やり」をすることを命じた。彼は日々それを守ったところ、その枯れ木から何年振りかで芽が出てきた。
< 本当の自分を見ることはできない >
――― 眼は自らを見ず、刀は自らを割(さ)かず ―――
どんなものでも、「そのもの自体」は知ることはできない。それを知るためには、そのものから離れなければならない。しかし知られたものは、すでに本物ではないのだ。
禅宗の始祖、達磨大師がインドから中国に渡ったとき、ときの中国の梁の国の皇帝・武帝に接見をした。武帝は仏教に傾倒していて、達磨大師にいろいろな質問をぶつけたがその答えをほとんど理解できなかった。思い余って武帝は、「私の前に立っている人は誰ですか」と問うた。それに対し達磨大師は「不識」(知りません)と答えた。一見人を喰ったような答えだが、じつはそれが「自己」というものについての、もっとも正確な説明なのである。
ひとは良く他人に対して自己紹介をするが、それは鏡で見て知っている自分であり、意識で作り上げた自分というもののイメージに過ぎない。それは実在ではなく、架空の実在(ヴァ―チャル・リアリティー)に過ぎないのである。