9月13日 輪読会『禅語遊心』から-第8回

 ―― 千江水有り千江の月、万里雲無し万里の天 ――

 千の入り江に月光がこうこうと照り映え、万里にわたる広い空間の空には雲がない、なんという広大な表現でしょう。西田幾太郎先生も愛した禅語だそうです。
 すべての入り江に分け隔てなくこうこうと輝く月とは、万人(すべての人)が必ずその内にひめている「仏性」のことだ、と宗久さんはおっしゃいます。それはどこでどんな暮らをしていようが、かならずその人に輝くはずです。
 後半の「万里雲無し万里の天」は、その人の仏性が開花し、煩悩の雲がはれるならば満天に澄み切った空が広がる。さえぎる雲とてない広々とした天地、もともと我々はそのようなところに生まれ生きていたはずである、というのです。

 さらに展開して、『法華経』に「常不軽(じょうふぎょう)菩薩」という方が登場しますが、このお方は、自分をどんなに蔑み、侮辱し、バカにするような人でも、その人に対し「我、汝を軽んぜず」といって礼拝するそうです。それはつまり、その人の内に潜んでいる「仏になる可能性」に対する礼拝だそうです。なかなかできることではないです。
 また『文殊師利般涅槃経(もんじゅしりはつねはんぎょう)』という経典には、生身の文殊菩薩に会おうと思ったら、慈悲心を起こしなさいと書かれているそうです。文殊菩薩が目の前に現れるときは必ず貧しいか孤独に打ちひしがれた姿をしているそうで、そのような人に慈悲心を注げば、文殊菩薩に出会える、すなわち、本当の智慧を身につけられるということです。
 これはキリスト教にも通じるもので、イエス・キリストの愛は主に社会の最底辺に居る人たちへ注がれました。それがやがて、聖パウロの「弱き者への愛」へと発展していくのです。
 この「神わざ」のような能力でも、禅では我々すべての人たちの中に眠っていて、それを目覚めさせるには意識的な日々の行動の習慣化が必要である、と説いています。
 月の満ち欠けは、考えてみたら地球(つまり自分)の影が月を隠しているのですね。もともと我々には影のない満月のような心が具わっている(円満具足)のです。すべての人間についてそのことを信じることが、多くの主だった宗教に共通する本質なのではないか、と宗久さんはおっしゃいます。

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