9月20日 輪読会『禅語遊心』から-第9回

 ―― 無事是貴人 ――

「無事」という言葉は、元々『老子』の道教の言葉だそうで、ふつう我々が日常で使う「無事でなにより」などの無事とはだいぶ意味が違うようです。
禅の臨済宗の始祖、臨済禅師は「無事是貴人(ぶじこれきじん)、但(た)だ造作(ぞうさ)すること莫(なか)れ、祇(た)だこれ平等(びょうじょう)なり」と云われました。大変難しいようですが、「自分の外になにかを求めることを止め、造作をせず、平常であることが『無事』だ」ということだそうです。
「外に求めない」というのは禅の基本的な態度です。我々にはもともと、DMAであれなんであれ生きていく上で人が必要なものは全て具わっている(具足している)、それを心の底から納得することで得る「安心」(知足する)、ということ。遠くのお医者さんは効くような気がするし、隣の芝生は綺麗に見える、これが人情かも知れませんが、そうやっていつも「外」に求めることを止め、自らのうちに潜む無限の可能性を信じる、それが真の安心の源です。
「造作をしない」とは、人が行う人為的な行為すべてを指します。当然そのなかにはその人の価値判断や時間の経過である歴史認識といった脳の働きもその造作の中に入りますが、そのような今目の前で起こっている出来事の価値判断や過去に起こったこととの比較といった作業を取りあえず保留し、その自然に起こったことをただ鏡のようにうつして感じている状況、ということです。
「無事」とは、坐禅をしているときの脳の状態、といっても初めての人には分かりずらいでしょうが、雲が浮かんでは消えるように、五感に感じられたことをただそのまま感知し、それを言葉に置き換えて考えたり、またそれへ自分の判断を加えたりする、それが「造作をする」ということです。
それを普段の生活の場に置き換えれば、歩いたり食事をしたりする、その時どの場での筋肉の動き重心の移動などを意識する、ふつうはそのような行動のしている時に人は今している行動以外のことを考えたり、ことによると、もっと他の行動も一緒にやってしまう。
玄侑宗久さんは、端的には「無事の動き」を「瞑想」と仰います。すなわち、流動する自分の動きそのものの中にある自分の命を瞑想の対象にする、ということだそうです。
このような云い方をすると、「泣いたり笑ったりしてはいけないのか」と早合点をされるかもしれないが、そうではなくて、その起こっていることに思考や判断をくわえない、即ち、そのような自分の「造作」をくわえて今を映している「鏡」を曇らせない。いま見聞きしていることにそのまま反応するのであって、要するに「そのこと」を判断したり記憶したりすることで「自分という枠」のなかにその事実を押し込めない、もっと自由にただそのまま受け止めるということなのだ、と仰います。そうできることが「貴人」、即ち、とうとい人なのだということです。

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