―― 止啼黄葉(していこうよう) ――
もともとは古い言葉として、ダダをこねてなき(啼き)やまない子供に銭をあげて泣き止ませる、銭の代わりに黄葉(秋の紅葉の葉)をあげる、ということが語源なのですが、そんな言葉を禅語として取り入れるとどうなるのでしょうか。
ここでは「銭」は単なるたとえに過ぎず、要は子供が啼き(なき)止むほどの力を問題にしているのです。
昔から『般若心経』を唱えると子供も泣き止む、といわれたそうですが、むろん子供がその内容を理解して啼き止んだのではなく、このお経にはそのような力が宿っていると空海も認めているそうです。
そこで、禅で取り上げる「止啼黄葉」は一つの悟りの境地なのです。お釈迦様を例に挙げれば、お釈迦様は当初、難行苦行を行じて解脱を得ようと試みましたが、やがてそれに見切りをつけて独自に修行を始め悟りを開いたのですが、その後先ず向かったのは、昔共に行じていてそこから離れたことに批判的だった仲間のところに行って説得を試みたのです。そこで彼らを納得させられたのは、その発する言葉も素晴らしかったのでしょうがむしろその「品格」が人を動かしたのではないか、と玄侑宗久さんはおっしゃいます。
イエス・キリストもそうでしたが、お釈迦様も多くの病人を癒しました。これは奇跡や神通力というよりもむしろ、彼らの側にいることで、彼らから発せられるなにものかに触発されたのではないでしょうか。
禅では「達磨安心(だるまあんじん)」ということばがありますが、これも、「不安で不安で仕方がない」という弟子の慧可(えか)に対し、達磨さんは「今そのお前の不安というものをここにもってくれば安じてあげよう」というののに対し、達磨を前にしてもう既に不安がなくなっていた慧可は「捜しましたが見当たりませんでした」と答えました。そこで達磨は「汝は安心して了(おわ)れり」と宣言します。
禅学的にはいろいろ解釈はされましょうが、ここは、慧可もそして我々も、人を安心させてしまう達磨の感化力に接しているのだ、ということです。