10月4日玄侑宗久著『禅語遊心』-第11回

―― 静寂 ――

 「静寂」は熟語としての静寂ではなく「静」であり「寂」の状態を言い表す言葉として、〔11月の言葉〕として取り上げられています。
 それは人が生きていく上での努力目標ではなく、むしろ、そうした意識的な計らいではなく、そうした日常の行為のずっと先にある境地です。
 11月ともなれば、木々の葉も散り始めます。それを人生に当てはめ「放下する」ことに繋がる、かもしれません。
 人は人生を歩んできた中で、「長年蓄積された意識の傾向や文化的環境、教育などで、他人とは違う『個性』めいた『自己』ができあがる」と思い込んでいますが、実はそんなものはでっち上げで、そんなものに固執するから人間関係等の社会的な争いや苦しみに四苦八苦するのです。それを「自我だ」として自分に溜め込み、それを、生きて行く上での行動基準・自分の価値判断・他人や物の見方の基準としています。そのような「自我」を削り取り(修行によって)、放下することでその後にみんな同じ「原資」が現れます。
 人は元々、「『渾沌』として生まれ、でっちあげの自己を作り上げることで世間での過ごしやすさを獲得する我々だが、ともすると、その自己が自分を苦しめる。そりゃあ元々でっち上げなのだから当然だろう。しかしそこからまた生命力最大の『渾沌』へと回帰するために、我々は言葉というオリエンテーリング(方向づけ)を利用するのである。どうも言葉というものは、生命力の流れを塞ぐらしいのだが、その流れに方向づけをするのも言葉なのだからややこしい。初めに言葉を浮かべ、その方向への所作を習慣化することで言葉は身体化する。身体化するということは言葉がなくなって無意識になるということだ。習慣化したために無意識でいられる状態こそが『静』であり『寂』」なのである。
 そして、それは修行によって得られるのである。

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