10月18日玄侑宗久著『禅語遊心』-第12回〔吾が心胶潔たるに似たり〕

―― 吾が心、秋月の碧潭に清うして胶潔たるに似たり ――

 これは「寒山(かんざん)・拾得(じっとく)」で知られる寒山の詩の一節です。
 「私の済みきった心は、秋の済みきった月のようだ」と言っている、その秋の月の素晴らしさとは「深い淵独特の碧(あお)い水面に映った月影の見てください」、「清らかで、胶々としあざやかに輝いているでしょ」と言っています。前回(第11回)で「霜月(しもつき)清池(せいち)を照らす」で紹介した、「池が清らかに見えるのも、結局それを見ている人の心を映している」ことで、寒山もこの詩でそれを明確に表現しています。
 「考えてみれば月は、常に照っている、それは我々の仏性と同じである。しかし雲に遮られ、雨に降られ、あるいは昼の明るさのせいで、常に照っている月が見えないのが我々の日常なのだろう」という、平素のわが日常に照らせば玄侑宗久さんからの痛言と聞こえます。
 禅宗の有名な教本の『臨済録』に「海月(かいげつ)澄んで影なし、遊漁ひとり迷う」という言葉が載っています。「澄んで影なし」とは妨げる雲が吹き飛ばされて、「本来円満具足している仏性がありありと現前している」からで、「あたかも自由に泳いでいるかに見える魚も、エサを求めてさまよっているだけに見え」るのだというのです。
 同じ宗旨で、越後の良寛和尚の詩の「心月弧円、光万象を含む」は、「満ち欠けする実際の月よりも、心月こそ独り円かであると云っている」「その光は、月の光が影を生むのと違い、あらゆるものをその光のうちに飲み込み、仏性そのものとして輝く」という。
 この辺を道元禅師は解り易く、

  水清うして地に撤す、魚行いては魚に似、空闊(ひろ)して天に透る、鳥飛んで鳥の如し。

「水は澄みきって深く、空も済みきって闊い。心が仏性を現前すればそうなる」ということで、そうなると「魚はいかにも魚らしく、鳥はまぎれもなく鳥に見える」のである。
 現実に我々はそれらを見、観察しても、直ぐに自分の実生活に関連付けたり知識に照らして連想したりする。「要するに仏性の月が曇っているうちは、物がちゃんと見えていない。先入観や概念をなぞっているだけ」なのである。

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