11月 29日玄侑宗久著『禅語遊心』-第18回〔宇宙無双日 乾坤只一人〕

―― 宇宙無双日(うちゅうにそうじつなし) 乾坤只一人(けんこんただひとり) ――

 「乾坤つまり天と地の間に、只一人しかいない、というのだが、この一人はむろん自分のことだ。禅的にいい直すならばこの一人とは『無位の真人』、今もあなたの面前(目鼻口耳)から出入りしている無相の自己のことだ」
 禅の言葉や言い回しにまだ馴染みが薄い方には、この玄侑宗久さんの言葉だけではまだすんなりとはご理解いただけないかもしれません。屋上屋を重ねるようで玄侑さんには大変申し訳がないのですが、更なる解説を加えると、「天と地(乾坤)の間に」は私という人間は「只一人しかいない」のであり、それは他の誰とも取り替えることができない唯一のもの(宇宙に双日無し=太陽が二つはない)ということ、そして、ここでいう「只一人の自分」とは、ふだん私たちが漫然と認識している自我としての「自分」ではなく、その奥に隠されている「本当の自分」(これを禅では「無位の真人」といっています)のことで、それは、自らが探り出さなければ自覚できない「自分」であり、いつもわが身の中に留まっていてくれているものでもないが、けれどもそれをいつも自覚することではじめて「宇宙無双日」、「乾坤只一人」という自己存在を認識できる、ということになります。そしてそれをするのが「坐禅の修行」ということになります。
 このように、折角の玄侑宗久さんの言葉を、筆者が勝手にここまで発展させてしまったのには、実は最近、日本の「社会福祉の父」とも呼ばれる糸賀 一雄さんの言葉に接したからです。
 それは糸賀さんの「この子らを世の光に」(「この子らに世の光を」ではなく!)という言葉、これは糸賀さんの重度の障害児が「だれととりかえることもできない個性的な自己実現」をしている姿に接しての言葉です。これぞまさに「『宇宙無双日』、『乾坤只一人』という自己存在の認識」ではないでしょうか。
 本章でこの表題を取り上げられたの玄侑宗久さんの主旨からは派生したものになってしまったかもしれませんが、「禅」の全体に立脚してこの「表題の語」を見るならば、このような含意も考えられるのではないでしょうか。

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