―― 死生事大 無常迅速 ――
玄侑宗久さんの本書も巻末の佳境にさしかかり、大変難しい内容になってきています。本表題の内容も、人類共通にして最大問題である「生死」についてです。
「道元禅師の『正法眼蔵』を要約した『修証義』では、このことを『生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり』と綴られる。仏教徒にとって何より大事なのが、生死を明らかにすることだというのだ」ということです。
「生死」は、「生まれて、死ぬこと。それは間違いない。しかし禅の考える生死の単位は、一生に一度生まれ、一生に一度死ぬことではない」のです。
我々のからだ(肉体)を考えたとき「同じ細胞が生き続けているわけではなく、次々に構成要素が変わりながら、しかもある一定のシステムを保っている。禅はこの構成要素と共に明滅する心の生死に注目」するのです。そして、「一つの心に生起する時間を刹那というが、これはおよそ七十五分の一秒。また似たような時間に『一弾指(いちだんし)』という単位もある。いずれにしても、こうした極めて短時間のうちに生死は起こる。その、刹那ごとに新しい命が発生する現場を凝視する。それが仏教徒最大の務めだと、この言葉は告げている」わけです。
私たちは「本来は死に続けている刹那を『夢』や物語で繋ぎ、あたかもそれが生き続けているように感じている。そこに糠(ぬか)喜びし、また徒(あだ)な怒りや怨みを育ててしまうのだ。この『夢』から醒めるのが、仏家の一大事」だとしています。「それじゃあ統合失調症じゃないか、と思われるかもしれない。たしかにそういう面もある。連続して生起する無数の自己を、まったく括らなければそういうことになる」のでしょうが、「しかし禅は、だから統合するなというのではない。現在の統合が、仮初(かりそめ)で便宜上のものだと、自覚せよ」と促しています。
「『無相』で『無念』、しかも『自性清浄心(じしようしようじようしん)』という善なる器が、そこでは用意されている。その器の中で、脈絡も辿れないほどに活発に躍動する心を見極めることこそ、生死を見つめること」になるのです。
ここで玄侑宗久さんは、ご自身のある体験を綴られておられます。「道場に入って三年目の臘八大摂心」(筆者注ー「大摂心」は禅道場などで、ほぼ1週間詰めっきりでひたすら座禅の修行をする行事。「臘八大摂心」は12月初旬に行われる摂心)で「五日目だったと思う。臘八にはほとんど眠れないから、二日目や三日目は睡くて睡くて仕方がなかったが、その朝は全くウトリともしない。頭の中が清澄(せいちょう)になった気がして、からだの存在感というものが感じなれないのだ。見えるものは輝くようだし、音も小さな音までもすべて聞こえるようだった。外の世界はいかにもありありと感じられるのに、しかしそれが感じている自分というものが、からだも心もなくなったように感じられた」そうです。
「たぶんからだがある種の限界を超え、タガでも外れるような状態になったのだろう。後になって私は、その状態を『無念』とか『無相』という言葉で思い返した。また道元禅師の『身心脱落(しんじんだつらく)』や『ほとけの御(おん)いのち』も憶いだした。自分のからだも、自分という意識もそこには芽生えず、一瞬一瞬が明鏡に映るようで、そこに自分は溶け込んでいるのだと思えた。いわば主観と客観が、合一していたのかもしれない」と述懐しておられます。「少なくとも眼・耳・鼻・舌・身・意という五感と心、感覚と判断に左右されない世界が、ちゃんとある。三昧の果てに、こんな体験ができるという喜びを味わ」われて、「私の生は、そうして二重構造になった」ことを自覚されたのです。
「人生は死に向かって不可逆的に進む時間であるばかりじゃなく、一瞬に無限の深まりが用意されているのだ」「感覚を駆使し、脳で判断して人生を因果的にコントロールすることも大事かもしれないが、それよりも一瞬一瞬の縁に身を任せ、それに三昧になる生き方こそ人生を深めるのではないか」「私は心が明滅するから世界が明滅する。ならば、私が世界に溶け込んでしまえば、そこには時間さえなくなる道理である。生死を見極めるというのは、この無生死を体験することでもあるのだと思う」と述べられておられます。