2月 21日 松原泰道著 『公案夜話』-第6回〔拈華微笑〕

 ――― 拈華微笑(ねんげびしょう) ―――

 これは、お釈迦様(釈尊)がある山で説法をされた時、そのとき成された釈尊の行為によって自らの後を継ぐ者(禅宗では法嗣=ほっす=といいます)を見つけられた時の情景が基になっています。
 説法を聞きに参集してきた人々の中の一人が釈尊に、金色の睡蓮(すいれん)を差し出しました。その花を受け取った釈尊は、何も言わずにその花を皆の前に指し示しました。皆は何のことか解らずにいましたが、弟子の一人の摩訶迦葉(まかかよう)尊者だけはニッコリと微笑みました。
 それを見て釈尊は、「吾に正法源蔵(せいほうげんぞう)、涅槃妙心(ねはんみょうしん)、実相無相(じっそうむそう)、微笑(みしょう)の法門有り。不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふぞく)す」と仰いました。難しい言葉ですが、松原泰道さんは「私がさとった微妙な真理は、文字や言葉ではとても伝えることができないが、迦葉だけが、私と同じさとりを、今得た事実を私は認める」と書かれます。
 これに関連して松原泰道さんは、山田無文老師のラジオでお話をされた講話の内容を例に引かれます。無文老師は、
 「私が青年のころ愛読した石川啄木の歌に『頬につたう涙のごわず一握(いちあく)の砂をしめしし人を忘れず』とあります。おそらく愛する人と悲しい別れをしたときの作でしょう。」「そのとき相手の人が黙って何も言わず、流れる涙をぬぐいもせず傍らの砂を無造作につかんで、自分の鼻先につき出して示した。そのときの切実な印象が忘れなれないという歌です」。「悲しいとか、つらいとかを言葉にだしたら、その感激はなかったでしょう。何も言うことができない胸に溢れる心情を、そぼくな行為で表現したところに、言葉以上に相手の胸を打つものがあったと思います」。「釈尊は縦横無尽に説法された後に、言葉は結局借物で、最後には言葉で表現し尽くせぬ大切なもののあることをお感じになったでありましょう。釈尊の深遠な自覚内容、無限な大慈悲……そういうものがどうして有限な言葉で表現できましょう」。
 そして松原泰道さんは、「ふだん私たちが境遇を同じくしたり、あるいは思想やものの考え方をともにしたりする間柄なら、まばたき一つでも、相手の意味が言葉以上に通じあう事実を、よく経験するところです」と具体的に解説されます。
 

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