――― 芭蕉拄杖(ばしょうしゅじょう) ―――
「拄杖(しゅじょう」とは、禅僧が各地を行脚(あんぎゃ=各地を巡り修行をすること)する時に持ち歩く杖で、自分の身長より長い上に「頭部に金属製の小さな環がいくつもついているので、拄杖をつくたびに音がし」、その音で自分の近辺の獣や足元の虫類が逃げ、身の危険を防ぎかつ無用の殺生を避けるためです。拄杖は後世には、儀式の持ち物となります。
この公案「芭蕉拄杖(ばしょうしゅじょう)」は、中国の芭蕉山に住した芭蕉慧清(えしょう)和尚が修行者たちに「『「お前が拄杖を持っているならば、私はお前に拄杖を与えよう。もしお前が拄杖を持っていないのなら、私はお前から拄杖を取り上げよう』」という、反語法のような、通常の常識では理解し難い言い回しで修行者に問題提起をしています。
これは偶然でしょうかそれとも必然でしょうか、新約聖書の中にも「弟子たちはイエスに近寄って『なぜ、あの人たちには、たとえ話を用いてお話になるのですか』と尋ねた。イエスは答えた。『お前たちには天の国の秘密をさとる恵みが与えられているが、あの人たちにはそうではない(与えられていない)。(すべて)持っている人は、さらに与えられてますます豊かになり、持たない人は、その持っている物までも取り上げられる。私があの人たちにたとえ話で語るのは、あの人たちは、見てもみることができず、聞いても聞くことができず、また理解することができないからだ』」という言葉が見られます。
松原胎泰道さんは「宗教哲学の金子(かねこ)白夢(はくむ)氏は、上記のイエスの『それだれにても、有(も)てる人は与えられて愈々(いよいよ)豊かならん。然(さ)れども有(も)たぬ人は、その有(も)てる物を取らるべし』の語に、キリスト教の奥旨(おうし=奥深い意味)が示されている(『無門関の新研究』)とされていますが、この公案も『あるなら与えよう。ないなら奪おう』が主眼です」と説明されています。そして、「公案」というものそれ自体が比喩で成り立っていますが、その中で使われている「杖」は正に「比喩の中の比喩」で、「心から頼りにするものですから」だから「宗教上の信心やさとりは目に見えないが、やはり頼りとなる拄杖や杖でしょう。修行に努力する者は、しぜんにその徳が積もります。つまり与えられます。その半面『私は、神も仏も信じない』と杖をもたない個性の強い人に対しては、その自我意識を取り上げようというのです」と書かれます。
更に、「臨済禅の祖・中国の臨済禅師の語に『金屑(きんせつ)眼中(がんちゅう)の翳(えい)」とあります。黄金の屑(くず)はどんな僅かでも値打ちがありますが、如何に貴重な金の屑でも眼病になって視力を失う結果となります。それと同じに、仏も法も貴くて有難いが、といって仏や法にとらわれてはならない。さとりや信心でも執着したら邪道である――と」と書かれ、「無門は『拄杖子を持っているなら、拄杖子を与えよう』と、持っているものに更に与えるという不可解な発言をしていますが、実は臨済の言や無門の警語でわかるように、持つ者からは執着心を奪い取るのです。このあたりは観念的な解釈ができたとしても不十分です。師家に参禅して実践修行が肝要とされるところです。公案の思索的学びには限界があります」と結ばれます。