――― 百丈野鴨子(ひゃくじょうやおうす) ―――
これは中国八世紀頃のお話で、馬祖道一(ばそどういつ)という禅師はその名からもイメージできそうな偉丈夫で豪快な人だったそうですが、その弟子からは多くの優れた禅者を輩出したことで禅宗史にその名を残していました。その馬祖の弟子で百丈懐海(ひゃくじょうえかい)という禅師も、これまた後に、当時の禅宗の世界に大きな変革をもたらしたことで後世に名を残している人で、このお話は、その百丈の修行時代のことです。
馬祖は、この百丈を非常に高くかい将来を期しておりました。百丈もまた非常な努力家で人一倍修行に励みましたが、その一方で大変頭脳明晰な人でもあったのですが、馬祖は百丈のその「かしこさ」に気を留めておりました。
とかく頭のいい人は、知識に頼りすぎ、物事をよく考える過程で「善と悪、右と左、白と黒といった相対的・観念的な考え方」に陥りやすい傾向があります。その「相対的な考え方になると、ものごとを比較して、あれこれと価値づけをし」その「区別あるいは区分」が、知識豊富なるがゆえに「とかく自分自身の主観が基になりやすいきらいがあります。その結果、自分の選んだものに執着して、それ以外ものを疎外するゆがんだ認識を生む」ことが多いのです。それを起因として、人は苦悩をし、社会においては軋轢を起こすもとにもなりかねません。禅修行では、このように真実からの乖離をしいかねない「分別(ふんべつ)意識」、相対的な認識の手法の徹底的な排除を求めます。
禅で求められる「純粋な絶対」の認識は他の思想を排除しません。他と比較することがないからです。相反する意見をも包含するベクトルを持つので、より高次に止揚されます。
お話は、「馬祖が百丈を従えて歩いていく前方で何か音がするので、ふと見ると野生の鴨がばたばたと羽ばたいて飛んで行きます」。
「『あれは何か』と馬祖。
『野鴨でございます』と百丈。
『どこへいったか』と馬祖。
『どこか遠くへ飛んで行きました』と百丈」。
そのときです。馬祖は振り返ると、「いきなり百丈の鼻の頭をぎゅっとつかんで、力をこめてひねるのです」。これは痛かったでしょう。なにせ、怪力の馬祖大師が捻ったのですから。そこで「百丈は思わず『あっ、痛い』と叫びました」。それを聞いて馬祖は「野鴨はどこへも行きはしないじゃないか、ほれ、ここにいるじゃないか」と言ったそうですが、この不可解な一連の遣り取りがまさに禅の真骨頂です。
この〔不可解〕が解けたなら、それはひとつの悟りの域です。ここで松原泰道さんからヒントをひとつ、ここには「野鴨と百丈との相対」が存在します。
このお話は、禅の公案であるとともに「人生論の上にも多くの示唆を与えてくれます」。そのひとつが「他己は、他者と自己との並列ではありません。『他者という名の自己』で、自と他という分別意識を超え、相対的な考え方を打ち払った純粋絶対の人間関係をいうのです」ということです。