3月 14日 松原泰道著 『公案夜話』-第9回〔百丈野狐〕

 ――― 百丈野狐(ひゃくじょうやこ) ―――

 百丈和尚は、その名が何度も出てきますが斯様に禅宗史に重要な足跡を残した人だから、ということができます。
 今回は、百丈和尚が説法をされる時に「きまって一人の老人が雲水たちと同じように坐って聴聞しています。講座が終わると老人も雲水と一緒にいつも退出するのですが、その日はどうしたわけか、かの老人はただ一人後に居残って立ち上がろうとしません」。和尚が「『お前はだれか?』と問うと、老人は恐る恐る答えます。『私は実は人間ではありません。ずっと大昔に、この寺の住職でありました。そのとき、ある修行僧から〝大悟した人は因果に落ちるか落ちないか(因果の道理に制約されるか否か)〟と問われました。私は、大悟した人は因果に落ちない(因果律に制約されない)と誤って答えをしました。このため私は、それからはこのように狐になって生きなければならなくなりました。どうか私をあわれと思し召して、なにとぞ私に代わって正しい解答のお言葉をいただいて、私を狐の身からお救い下さい』と懇願します」。そこで百丈和尚は、「(大悟した人は)因果の道理を昧(くら)まさない(背かない)」と説いたといわれます。そして、その「老人はその場でさとりを得て狐の獣身を脱することができました」ということです。
 大悟するとは<迷妄を脱して真理を悟りきること>で、また因果とは<今ある事物が以前の何らかの事物の結果であり,また将来の何らかの事物の原因である>というそれぞれ仏教用語で、ここではこの老人が、当初〔大悟したような人は一般的な“因果”などというようなものには拘泥されない〕答えたというのことですが、こ答えは間違いだった、ということです。
 この百丈和尚のお話以来禅宗では、「禅の奥義に達していないのに、如何にもさとったかのような言動や、そのように振る舞う人のことで、世間でもうぬぼれの強い人」を「野狐禅」といって揶揄するようになりました。
 百丈和尚の「(大悟した人は)因果の道理を昧(くら)まさない」という言葉の意味は、「因果律は、原因があれば必ず結果があり、結果には必ず原因があるという法則ですから、仏教思想に限られるものでなく、あらゆる事柄や現象が消滅したり変化しる根本原理で、否定できない事実です。しかし人生の場合、因果律にとらわれると運命論や宿命論になり、ときには思いもよらぬ迷信となってしまいます。そうしたひずみを正すには『不昧因果』を正しく身につける必要があります」ということになります。
 これは、卑近な例でいえば、〔どんな人でも“時間”というものに必ず何らかの影響を受ける。そしてよく「時間を超越する」というような言い方がされますが、それは決して時間の拘束を受けなくなった、ということではなく、「時間をうまく使う」ということ〕ができます。そして更にその延長線上で、〔生と死〕の問題にもつながっていきます。

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