藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第24回ーを受けて

【第3章 坐禅の効用って?】

 ―――― 調身・調息・調心が坐禅の極意 ―――― から想をえて

 本章のメインテーマは、もちろん「調える」ということです。
 これは、お釈迦様(シッダールタ)が提示された、実践面(「仏教をする」)での最重要の要素です。
 ですので、仏教の実践そのものの修行ともいえる坐禅の、それを実修する際の「キホンのキ」でもあります。私どもでも、どんなに修業歴を積もうが「坐る」際のそれは最初にすべきこと、でもあります。そして当然、初心者の方(「新到者」といいます)には、最初の坐り方のレクチャーでは最も重きをおいて説明するところです。
 本章では、「調える」ことをメインテーマにして3つのことが語られている、と思います。
 ⓵ 調身・調息・調心。
 ⓶ 心身に自然に内在している自己調整能力の発揮を、自らの思惑や意図的作業によって妨げない。
 ⓷ 無心であることを稽古する。自然体であることを稽古する。
 「⓵」についてですが、「調える」ということを具体的に身体で実践する内容です。そして、ここでも伊藤比呂美さんが注目されているように、心も身体も関連付けて調和させ統合しているのが「調息=呼吸を整える」です。私どもがやっている臨済禅では、呼吸を非常に大事にします。呼吸を“調える”ことによって、心が安静になり、身体も各臓器のバランスも調ってきます。この作用については、科学的にもいろいろ研究されているようですが、私たちは、心臓の鼓動、消化器官の蠕動(ぜんどう)運動などは生命維持に不可欠な運動であり、無意識の内に不随意筋でなされているのに対し、呼吸は同じく生命維持に不可欠でありながら自らの随意(意識下)でコントロールが可能であり、それがゆえに呼吸を「調える」ことにより、生命体である身体全体を「調える」ことにつながる、と伝え聞いております。ですので、臨済禅では「数息観」という呼称で、呼吸を一定の間隔(ご自分の生理的なインターバルで)続け、それを“数える”こと、呼吸に“集中する”ことを坐禅修行の重要なツールとしています。
 「⓶」については、「自己調整能力」なるものが人間の体内に内在している、というようなことを意識したことはございません。藤田一照さん個人の認識なのか、筆者の寡聞なのか分かりませんが、仏教では、身体の動き、心の置き方などを天然自然の摂理と調和させる(表現の仕方が稚拙で恐縮ですが)、というようことを非常に大事にしております。ですので、ニュアンスとしては同じ地平の上での表現なのかもしれません。
 「⓷」については、「無心=自然体」という図式が妥当かどうかわかりません。一照さんは、この2つは別なことをおっしゃられているのかも知れませんが、本章の文章だけではわかりません。ここでその分類を論じてもあまり積極的な意味はなさそうですが、これまた曖昧な表現で恐縮ですが、ニュアンスとしては非常に得心が行きます。そして、「稽古=修行」という図式はお許しいただけると思っております。そこでこの“稽古”には、上で述べた「数息観」が非常に有効な手段だ、ということは申し添えたいと思います。
 ここからはまったくの蛇足ですが、本章でのこのような禅の解説だけを見ると、それに関連して、最近注目されている「瞑想法」とか「マインドフルネス」といったものと坐禅とが、同列、同次元、あるいは同根で語られることが頻繁であることがやゝ気になります。どちらが上位に当たるか、などの議論は無意味ですし、同じ延長線上に存在する、という見方(どちらが先でどちらが後位かなども同じく無意味ですが)も何となく理解できますが、それでも、お釈迦様(シッダールタ)がその出家初期の段階で修行されていた、インドの古来から伝わていた瞑想法をある程度窮めていながら、瞑想では自らの安寧は得られない、と悟られてそれ以上続けることをお止めになった、という事を一照さんも別なところでおっしゃられておられましたが、故無きこととはしたくないのですが。

カテゴリー: ブログ, 輪読会 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です