<第78回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第25回ー

【第3章 坐禅の効用って?】
※ 今回は「第3章」の5回目です。

―― 坐る前に正しいビジョンを持つべし ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) 初めて坐禅をやるときの心得とか、大事なことが何かありましたら教えてください。
藤田一照(以下、一照) 仏教って修行を始める前に、何をねらってその修行をするのか、その修行はどっちを向いてやるのかということを、ちゃんと理解してから取り組まなくてはいけないというのはあります。旅に出る前の正しいオリエンテーションは大事。
比呂美 理解しないまま、とりあえずやる、という姿勢ではダメですか。
一照 ダメです。坐禅というのは、誤解されやすいものだからこそ、最初に正しい坐禅観が必要なんです。たとえば前に話した「八正道」(八種類の正しい道をつねに守り行うことによって、悟りが得られる)、この八つの修行の道の最初には、まず「正見」が置かれています。正しい見(けん)、ビジョンを持つ、正しい方向性を見定めるということから始まるわけです。これを私は、「ビジョン」とか「見通し」と言うのがいいのではないかと思います。正しいと言っても、道徳的な善悪ではありません。仏教のダルマに基づいて、縁起の方向に照準があっているかということです。
比呂美 仏教の根本である縁起を、常に念頭においてやるんですね。
一照 そうです。縁起というつながりのビジョンに導かれて修行していく必要があるんです。日本人は、テレビで見たり本で読んだりして、だいたい坐禅はこんなものだというイメージをもっている。まったく知らない白紙状態ならまだいいんだけど、坐禅についてのいろんな先入観、偏見をもうすでにいっぱい抱えているから困る。誤解なのに自分はある程度理解したつもりになっているところがまた非常にやっかいです。
比呂美 誤解とは?
一照 よくあるのが「坐禅は手段であって、最終目的は悟りという特別な体験を手に入れることだ」という根深い誤解。ほかにも「坐禅というのは自分の内面に沈殿していくことだ」という誤解。
 この宇宙の片隅で、一人ぽつねんと坐っている、というような、どこまでも「自分中心」から抜け出していないようなそんなちっぽけなものではないのです。それは、広大無辺といわれる「縁起」を現に実践しつつある、壮大なものなのです。これはもう人間業(わざ)ではない、道元さんは、仏のやっている業、即ち仏行だ、とおっしゃっている。
 坐禅についての間違ったイメージをそのままにしておいて、ただ、坐禅のやり方だけを詳しく教えられても、それは結局、「自分の坐禅」、間違った理解に基づいて歪曲された坐禅をしてしまうことになる。
 日本の一般な坐禅会って、坐禅をする前のオリエンテーションの重要性がほとんど認識されていない。
比呂美 私も10年以上、がむしゃらに仏教を探し求め、日が沈むのを見ても、雨が降るのを見ても、仏教のことを考えいた。でも考えるだけで、具体的には何も行をしていなかった。やはり坐禅をしなくちゃ、と思っています。
一照 。本当はそのぐらい事前準備に時間をかけてから坐禅をした方が、その後、呑みみも早い。「坐禅はいいものだ」といって、闇雲にやり始めるのは、ウォーミングアップなしにいきなりフルマラソンを走りだすようなもの。僕も、実は坐禅は、人に言われて何もわからず坐禅を始めたんだけれど、でも、仏教が問題にしているようなことを別の分野で考えたりしていた、というのがあって、坐禅にググッとハマッたんです。
 仏教の伝統では、いきなり坐禅なんかさせない。自己流になってしまうし、危険だから。ここから先は坐ってわかるしかないというところまでは知的にまずみっちり勉強させ、何が仏教的に正しいか、何が間違いかをちゃんと身につけてから坐禅を許される。

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