藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第25回ー を受けて

【第3章 坐禅の効用って?】

 ―――― 坐る前に正しいビジョンを持つべし ―――― から想をえて

 「坐禅をするときの心得」というと、とても物々しい感がします。ただでさえ、普段組んだこともないような組み方で足を組み、静寂な所で身じろぎもせず、ただひたすらジッと坐っている。それだけでも異次元の世界に入り込むようなそんな違和感を感じているのに、その上未だ、始める前に「心得が必要」とおっしゃる。
 でも、それは決して故無きこととはしないのです。本章で藤田一照さん、伊藤比呂美さんのお二人がお話されている、特に一照さんが強調をされようとしているこの章の内容は、禅の中に“身を置いている者”にとっては切実な問題なのです。
 何度か書きましたが、もうだいぶ前から世界的に「ZEN」に対する関心は広まっており、ましてや日本人ならば禅を知らない人はいないでしょうし、精神世界のことに少しでも興味を持った方なら「禅」に関心を向けない人はいないでしょう。それが故に、巷には禅に関する情報があふれ、「『禅』という得体のしれないもの」に多方面からのアプローチをされています。その辺が一照さんが危惧されるように「日本人は・・・坐禅とはこんなものだというイメージをもっている」と嘆かれるところで、まさにイメージ先行なのです。「生兵法は大怪我の基」という諺もあります。何故そういうかというと、生噛りで坐禅に取り組むと非常に危険だ、ということが絶えずあるからです。この「危険」ということについては、次章で触れられます。 
 改めて申し上げておきます。「禅は仏教の一派です」。仏法を無視した禅への取り組みは、これぞまさに「仏作って魂入れず」です。「でも、仏像という作品は残るじゃないか」とおっしゃられる方もおられましょう。「仏作って・・・」がなぜ非難の言葉として使われるかと申せば、言わずもがな、そこからは形骸だけが残って何も得るものがないからです。「何も得るものがない」のは、まさに坐られた方ご本人が何も得られないからです。
 前にも触れましたが、最近、「瞑想法」とか、米国仕込みの「マインドフルネス」、「ヨガとタイアップした瞑想」だとかが非常に注目を集めております。それは決して故無きことではなくて、世界的な禅への関心と多分軌を一にしていることなのでしょう。どちらが優勢か? なんてどうでもいいことです。このブームはなぜなのか? それについて話しだすと大変長々しい文章になってしまいますので、ごめんなさい、割愛させていただきます。しかし、ここまでの文脈の流れで、筆者が、禅と瞑想法について何を言いたいかはある程度お察しいただけるのではないでしょうか。
 「禅は宗教ではない」という言い方もされます。これを申された方はある著名な方なので、知る人ぞ知る、禅に関するいわば裏情報のようにして、禅にある程度造詣をお持ちの方たちの口の端に時々昇ります。そしてこれが、往々にして誤解を生むもとにもなります。すなわち、禅の機能的側面ばかりが強調され、メンタルヘルスの分野で応用されたり、ということが起こる、ということなのです。キリスト教の、特にカソリックの司祭の方やその修行段階の修道士・女の方々が良く坐禅を組まれる、というのはまさにこの機能性故でしょう。しかし、それらは禅の取り組みとしては非常に皮相な取り組みで、それでは禅の「山よりも高く海より深い」といわれる禅の淵源への認識をスルーしています。 
 ここから先はやゝ我田引水。私たちのような一般人が日々修行している「居士禅(在家禅)」の、その人たちの集まりである「人間禅」という団体があります。筆者もそこに属しております。この人間禅の‟人間”とは「禅を通じて人間性を高める」という主旨からその名が付けられております。それは、坐禅を日々積み重ねることによってその人の内実を熟成させ、その人間性を高めることを目指している、難しい言葉を使うことをお許しいただければ「止揚(アウフヘーベン)する」ということです。それは日々「禅をする(坐る)」ということが、その人を紛れもなく止揚するものだからです。筆者も、まだまだ道半ばですが、日々坐る先に、その地平の先にそのようなものが視認できなければ、およそ坐る気にはなれないでしょう。

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