【第3章 坐禅の効用って?】
※ 今回は「第3章」の7回目です。
―― 瞑想と坐禅の違い ――
伊藤比呂美(以下、比呂美) 最初に一照さんは、瞑想と坐禅は違うとおっしゃっていましたよね。シッダールタ(ブッダの本名)は菩提樹の下で、瞑想していたわけではないんですか。
藤田一照(以下、一照) シッダールタが菩提樹の下で何をやっていたかは、正確には誰もわからない。南方系仏教の人によれば、呼吸瞑想していたとなるんだけど。
「呼吸瞑想」というのは、今ここで起きている呼吸に注意を向けていた。「吸う息が起きている時には吸う息が起きていると知り、吐く息が起きている時には吐く息が起きていると知り……」と経典に書かれています。
比呂美 それは坐禅とは違うんですか?
一照 前にも言いましたが、坐禅では呼吸を特別扱いしない。つまり、呼吸だけに注目するというのは人間の都合でそうやっているのです。
実際は呼吸だけじゃなくて音を聞いたり、匂いを嗅いだりと、無数のことが同時に起きているわけです。大体僕らの体験では六種類の感覚の窓――眼・耳・鼻・舌・意――から入ってくるインプットで、これが織りなされることであらゆる経験が成立するというのが仏教の立場なんです。たとえば、カラープリンターの中を開くとカートリッジはたったの四種類しかない。この四つの色ですべての色がかなりリアルに印刷されてでてくるわけでしょう。それと同じように、僕らは無限の数の経験をしているけれど、仏教でいうと六種類のインプットの組み合わせですべての経験を説明できると言っている。
この「六種類のインプット」がわれわれにはすべてだから、ここで感得できるもの、今現実に身の回りで起こっていることを「自分の思考」で歪めないで、そのままその通り受け取る。そこから見えてくるものが仏教の本義である縁起だったのだ。
他の宗教では、まず第一に教義のような理論があって、それを起点にして信仰が成り立っているが、シッダールタは、今私たちが経験しているナマの経験を心を静めてよく確かめてみよう、という。この「心を静める」ことを「止」と言い、そのことを深く観察することを「観」という。この二つを合わせて「止観」という。止観から見えてきたものが縁起なのです。
「呼吸」に特別な意味を持たせるのは、瞑想に便利だからです。現にそこで起こっていることは呼吸だけじゃない。音も聞こえれば、他の感覚から入ってくる情報もある。坐禅というのは、さっき言った六つの感覚から入ってくる情報に均等に自分をさらしている状態です。その中の呼吸だけをチョイスするのは、まさに便利だからで、現に、呼吸の瞑想ができるようになるともっと複雑な事象に注意を向けるように修行の段階が組まれています。つまりこれは、人間が考え出したメソッド(一般には、方法、手法といった意味)のシステムです。坐禅とは、そういうテクニックにはしらないで、現実に起こっている事象に自分をさらす感じです。