[輪読会] 石川 ゆかり著 『禅語』

石川ゆかりさんはエッセイストですが、禅宗とは全く無関係で、それまで一度も“座った”ことすらない人でした。それがある編集者から「禅語に興味はないですか?」との声掛けがきっかけで本書を出版することになりました。ですから本書は、禅語の解説書では無論ありません。ただ、それまで「禅」の知識はあったが禅の世界とは無関係だった人が、「禅語」を読んでどのように感じ、どのような啓示を受けたかを綴った本です。

 

<一期一会>
幾度同じ相手と茶会で交わろうとも、今日のこのときの会に二度戻ることは決してできない。人と会うということは、常に、一生に一度の貴重な機会なのだ、という千利休の茶道の心得。
私たちは、空間や物体に手を触れるし目にも見えるけれど、時間はつかみどころがなくとら えるとができない、と感じている。しかし、本当にそうなのだろうか。
去年見惚れた桜の大木が、いつの間にかマンション建設のために切り倒されている。先週入ったお店が、今週、店じまいしている。それらにはもう、二度と会えない。
わたしたちはしばしば「時間がない」と言う。でも、時間は、生きている限り、私たちの中に流れ続けている。失われていくのは、空間であり、物体のほうだ。
時間と空間ということを数学的に座標系として書き表すと、時間は実数で、空間は虚数で示されるのだそうだ。虚数とは、二乗するとマイナスになる数、すなわち、存在しない数である。そんな不思議な数は、むしろとらえがたい「時間」のほうに似つかわしいようだが、実はそうではないのだ。とらえがたい不思議なものは、目の前にある空間であり、この位置、この時点のほうなのだ。
「また会える」というのは、時間に対する感覚で、空間や物体に関する感覚ではない。私たちはそれを、頭の中であべこべにすり替えてしまう。このすり替えを、「一期一会」という言葉は、もとに戻そうとしているように思える。

 

<看脚下>
足元を見よ、の意。足元とは、自分の日常生活やもっとも身近なもののこと。
自分の現状には、とかく、気づきにくい。具合が悪くても病気にかかっていることに気づかなかったり、ストレスを溜めていることがわからずに毛が抜けたり鬱になったりする。家族のことや仕事のこと、タテマエや体験など、自分の外側のことばかり気にしているうち、「自分」が自分の生活から消え、どこに立っているのかわからなくなってしまうのだ。
あの人がこれをしてくれれば、彼さえ変わってくれれば、と、私たちはしばしば、外側に期待をかける。でも、そんなとき、本当の問題の所在は、自分の中にあったりする。

 

<主人公>
「本来の自分」「自己本来の面目」を意味する言葉。
そういわれても「本来の自分」を自覚することは難しい。でも、禅の世界ではそれに「目覚めよ」という。どういうことなのだろう。
中小企業の「二代目社長」を想像する。すでのある会社組織を引き継いだのだから、恐らく最初は企業経営とか社長業とか何もわかっていない。でも、周囲からは「社長としての自覚を持ってもらいたい」などと言われるけれども会社経営は、景気動向とか社員の労働だとかに左右され、決して社長の意のままにはならない。でも社長は、その気になれば会社をたたむことだってできる。
私たちも、世の中の流れや自分の置かれている周囲の状況に流されているようで、結局は自分が自分の中心にあって、それを取り仕切っている。
天地の間にただひとり歩いていてさびしくも頼りなくもないのは、つまり、自分の主人公に目覚めているからなのだ。

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