[輪読会] 立松和平 著 『禅語に生きる』

文筆家で自然環境問題にも積極的にかかわっておられる立松和平さんは、実は禅宗には造詣が深いのです。あのTVでもお馴染みの独特の語り口そのままに、自らのこれまでの人生の歩みに合わせて禅語について解説されています。

<禅語という人生>
これまで生きてきた中で、私にも幾つか印象的な言葉がある。先年百六歳で遷化(せんげ)された永平寺第七十八代管主宮崎(みやざき)奕(えき)保(ほ)禅師とお話をする機会に恵まれたのだが、その時のお言葉が私の胸に深く残った。思い出すままに再現すれば、それはこんな話であった。
「わたしは禅師などといわれているが、ちっとも偉くない。わしは師匠のなさることを、ずっと真似してきただけじゃ。朝起きて顔を洗い、坐禅をし、食事をつくって食べ、寺の掃除をして、庭や畑の草むしりをする。経の読み方を真似る。何でもかんでも真似てきた。一日真似れば一日の真似。一年真似れば一年の真似。一生真似をしてやっとほんまもんになる」
この意味は深淵だ。私たちも先人から学んで生きている。学はまねぶで、つまり真似ることである
禅は不立(ふりゅう)文字(もんじ)といい、釈迦の教えを経典にばかり頼って学ぶのではなく、心で学ぶのをよしとする。だからといって、文字をおろそかにするのではない。禅寺にいけば、いたるところに文字が掛けられている。それはすべて先人たちの知恵のつまった禅語である。このように生きていけばよいという指標を示した、いわば人生の里程標のようなものだ。この言葉の通りに真似をしていけば、やがてはさとりの境地に至ることができるという案内版なのである。

<「禅」とは何か>
禅とは釈迦が悟りの境地に至るまでを追体験するということだ。釈迦は無明から苦しみの根本原因が発し、苦しみの生起してくる過程を十二に分け、誰にでも分かるように説くことが可能であると認識した。その十二因縁を説き明かしたことが釈迦のさとりだといわれている。深淵にして広大無辺な釈迦のその禅定は私ははかりがたい。
坐禅とは釈迦の禅定の姿を真似しているのである。あの姿なのである。瞑想の内容ははかり知れないから、まず形から入るということだ。威儀即仏法といい、姿勢が決まれば、正しい修行をつづけているうちおのずと内容も付いてくる。内容から入ることは不可能であるから、外部からはいっていこうというのだ。威儀を真似るのは大変なことで、時間をかけて少しずつ本物になっていく。

<主人公(しゅじんこう)>
自分の中にもう一人の自分がいる。その自分は自意識が強いあまり、無理に今ある形をつくっているのではなく、純粋なために何があっても動じずに未来の姿を失わない。自分の中にある絶対的な主体であり、本来の自己であり、いってみれば誰でもが内に持っている仏性のことだ。つまり、欲や自我のために、本来の面目、本来の姿がわからなくなっているこの今の自分の、本来の「主人公」なのである。
その主人公に目覚めることが、禅の修行である。自分が何者なのか、何をしたらよいのかわからなくなった時には、主人公に目覚めてもらえばよいのである。現象の中で自分が迷っていることなど、主人公はお見通しだ。自己の主人公に目覚め、主人公と手をたずさえて歩いていけば、曲がった道をいくことはもうない。
自己の主人公に目覚め、明瞭につかんで離してはならない。他から影響を受けるあまり、主人公を失ってはならない。仏性は誰の内にもあるのだが、時に隠れてしまうのだ。
本来の自己とは何か。もちろんそんなに簡単にわかるはずもないのだが、それをわかろうとするのが禅修行だ。

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