8月16日 輪読会『禅語遊心』から-第5回

 ―― 竹密にして流水の過ぐるを妨げず ――
 この言語の意味としては「竹がどんなに密生していても葉がどんなに茂っていても、そこを流れる『水』を妨げることはない」という、いわば読んで字のごとくの内容です。
 このごく当たり前のようなことをあえて禅語として取り上げるのには、禅では、その中に深い含意を見てとるからです。
 たとえばこの水を、世間の中で起こるさまざまな出来事とみれば、禅の修行を積んであるレベル(これを禅では「境涯」といいます)に達すれば、次から次へと流れてくる水(世間の出来事)を受け流し、心に留めることはない、ということです。
 またこの水を自分の身の回りで起こる出来事に置き換えてもいいでしょう。流れてくる水は竹の根元(自分の身の回り)ではあるいは淀み、あるいは流れを変えて流れるでしょうが、決してその根元に留めることはありません。
 次から次へおこる色々な事は、その都度、悲しいあるいは嬉しいと、色々な感情を呼び起こします。そしてとかく人は、前に起こった事(通り過ぎて行った事)を次の起こった事へと引きずり、例えば悲しい事などをどんどん積み重ねていきます。そうして人は自分なりの時間経過としての歴史を作り上げていきます。その蓄積された感情を増幅(連想)させ、さらにその連想したものに自らの価値判断を下します。けれどもそこで下した価値判断は、もうその時その場で起こった事への判断ではなくなっています。
 また人は、何か行動を起こす前にある心の方向を無意識の内に決めており、いつもその方向に沿った材料や情報を探す傾向にあります。しかし天然の竹は、何の先入観もないから、何の蓄積されたものもないから(だって竹の中はカラッポです)、その都度の喜怒哀楽は、純粋にその場限りでの悲しみ、苦しみ、怒りにするとするのです。竹は実にしなやかなのです。
 玄侑宗久さんは、この章の最後を次のような一句でしめています。
  心おば水のごとくにもちなして方と円とを物にまかせん

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