―― 無 隻手空拳・千変万化 ――
ここでいよいよ、禅の根本的体験と言える「無」についてのお話です。
この「無」に関しては、有名な「趙州の無字」という公案(禅の修行者がその先生‐師家-から与えられる、修行の助けとなる問い掛け)が有名です。その内容は、「イヌにも仏性が有るか無いか」という修行者からの質問に師家である趙州禅師が「無」と答えます。また別な修行者からの同じ質問に対しては「有」と答えた、ということが伝えられています。この相矛盾する問題提起を「何故なのか? それを解け」というのがこの公案の主旨なのです。
この「有る」とか「無い」とかの認識は「じつは我々の脳機能によって捏造された価値判断であり、実相ではない」といえます。
この事を例えていえば、「善悪や美醜」などは分かり易いかもしれませんし、ほかにも「常識・非常識という人間の価値判断は、極めて相対的で流動的だということ」、すなわち、その時代や国などの地域によっても違ってきます。さらに言えば「大小だって上下だってそうだ。基準の置き方たで変わってしまうもの」です。「・・・なのに、我々はこうした価値判断に振り回されている。それを何とかしようというのが」この公案の問題提起の本旨なのです。
視点を変えて、量子力学の世界で言えば「素粒子たちは、観測されなければ波であり、観測されると初めて粒子としての姿を見せる。また我々の目の前の空間も、何もない空間とモノの占める場所とに分かれているが、実際は『無い』と見える処にも無数の素粒子が運動し、固定的なモノと思えるところもじつは空間だらけ。つまりモノのあるなしも、物理的には区切りをつけにくい」のです。
ですが、「そこに明確に区切りをつけようとするのが我々の脳だ。視覚も聴覚も、この脳による統合機能なしには役立たない。 『有る無し』をはじめ『大小』『美醜』『尊卑(そんぴ)』『善悪』などと瞬時に判定しているのが、我々の脳なのである」ということです。また「そうした両極端に分けてみればモノゴトはすっきり理性的にとらえやすい」ことになりますが、ですが、禅ではそうした“区分け”をする前に「モノゴトの実相を看よと」といっているのです。
本章の表題の「無」の添え書き(副題)に「隻手空拳・千変万化」とありますが、これは先ず、日本の江戸時代中期の高僧・白隠禅師が「隻手の音声(おんじょう)」という公案を創案しましたが、それは「両手の音ならだれでも聞けるが、片手の音を聞け」というものです。
これに「無」を組み合わせ「隻手空拳」としたのです。「隻手」は上で述べた相対的なものの見方・考え方を超えた絶対の象徴です。それに何も握られていない、すなわち「空拳」、何も握られていないから、「空っぽだからこそ自在な働きができる」ということになり、次の「千変万化」につながります。