11月 1日玄侑宗久著『禅語遊心』-第14回〔無禅の禅、是れ正禅と名づく〕

―― 無禅の禅、是れ正禅と名づく ――

 ここまでは「禅的な世界の見方を、さまざまな掛け軸を通して味わって」きましたが、ここにきて「その禅も放下せよという。なぜか。禅臭いからである」というのです。
 これは非常に高い見地なので、ここは極力、玄侑宗久さんの文章をそのまま委ねることにします。「公務員は公務員のように物を見」、「編集者は編集者らしく文章を読む」が故に「新聞でもつい鉛筆を持ってしまったりする」。「また同じ木を見ても、宮大工さんは頭の中で墨付けしているし、植物学者は見えない維管束(いかんそく)を想像しており、染織屋はその樹皮や枝葉に潜む色を想う」ということだそうで、「そこまで行けば、普通はその道で一人前と云われる。専門家としては、それで必要十分だろう」が、けれども「禅というのは、職業でもなければ特定の場面だけに役立てる道具でもない。ただマットウな人間になろうというだけなのだから、外からいかにも禅っぽく見えるようではまだまだなの」だそうです。上に挙げたそれぞれの職業でも、究極には「そうした職業独特の臭みが消えていくのではないだろうか」。だから「まさか、この人が?」という体験が、たいていの人にはあるのではないでしょうか。
 それは「別な云い方をすれば、それは禅が看板や杖でなく、完全に内部原理になることでもある」からです。ですから、更なる研鑽を積んで「自転車の補助車をはずすように、思い切ってこれまで頼りにしてきた杖や看板を放下することが最も関門になる」のでしょう。
 禅宗の有名な白隠和尚と同年代の月船禅慧和尚は、ご自分の寺の檀家衆に、それまで「書き与えた墨跡を、もっと佳いものと交換してあげるからみんな寺に持ってきなさいと云ったらしい。それを聞いた人々は当然うはうは喜んで墨跡を持参したのだろう。ところが和尚、そうして集まったものを纏めて焼き捨てたまま、二度と与えなかった」そうです。
 「月船和尚は私などの想像を遥かに超えて放下しつくし」た上で、「無禅の禅に立ち返ろうとされたのだと思う」と玄侑さんは申されます。「まあ想像するに真相は、月船和尚、昔の字が禅臭くて嫌だったのではないだろうか」。
 「むろんそうして過去を消したからといって、無禅の禅といえるわけでもない。要は修得したさまざまな技術や理論を丹念に洗い落とし、『初心』に戻るということだろう」。
 以下、玄侑さんの言葉をつづけると、「それにしても、苦労して学んだことを忘れろなんて、それなら学んだ甲斐がないじゃないか、と思う人もいるかもしれない。忘れてしまったら、そもそも学ぶことで何かが違ってくるのか、と」。「確かにそれは分からない人にはわからない違いだ」。

 「巡礼の帰り土産やもとの顔」

「しかしこの『もとの顔』、同じ道をたどった人にはやはり違って見えてくるもである」。
 「世阿弥は「初心忘るするべからず」と言ったが、彼は『老後の初心』も忘れてはいけないという」。

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