11月 8日玄侑宗久著『禅語遊心』-第15回〔心外無別法〕

―― 心外無別法(しんげむべっぽう) ――

 この語は、恵心僧都(えしんそうず)の『自行略記』や鈴木正三(しょうさん)の『盲安杖(もうあんじょう)』などに出てくる語で、元は『法華経』の思想を表したものです。
 「心のほかに、別にとりたてて法はない。つまり、心によって世界の在り方が決まるということ」です。憎らしい人と好きな人とでは、その相対する人の人間観は全く違ったものが想起されます。「全てある特定の心との出逢い、要するに世界を決定づけるのは心だといっている」のです。
 ここで言っていることは、単に「煩悩」のことではなく、「我々が則(のっと)るべき法則としての心」と受けとめるべきなのです。そしてそれは、禅修行の目指すところの一つの「理想的な」到達点ともいうべきものです。
 「お釈迦様の般涅槃(はつねはん=死)に際し、まだお悟りが開けていなかった(弟子の)アーナンダ(阿難尊者)は、嘆きつつ訊ねる。『これからはいったい何を頼りに生きていけばいいのでしょうか』」
 そこでお釈迦様は、「我々が拠り所とすべきは、ただ自分の心と、そして世界をかくあらしめている法(ダルマ)」だ、とアーナンダに伝えられました。これは、仏教では「自燈明 法燈明」という言葉で語られます。
 ところが、「自分」というものは「勝手気ままで変幻自在」なものであり、だから「仏教では『無我』という言葉さえある。そして困ったことに、『無我』という無くすべき我も原語ではアッタン、拠り所とすべき我も、原語では同じアッタンなの」だそうです。ならばいったいどうすれば良いのでしょうか?
 「我という存在は、なんらそれ自体で成立する独自の特性を持っているわけではない。嫌な奴に向き合うと嫌な人になるし、親切で誠実あふれる人に接すればこちらだって素敵な人になる。つまり我々は、縁に応じて変幻する『縁起』の中の存在であり、存在そのものは『空』なの」です。「縁起でどうにでもなるが、本来的な我には相(すがた)がない。逆を言えば、相がないからこそどんな相にだってなれる」ということです。
 「むろん固定したどんな念も持ってはいないから、どんな念を抱くことも可能」なのですが、しかしそれはすべて「法に適って」いて、決してそれを違えることはない。「そんな自由な我に、どうしたらなれるのか」。玄侑宗久さんはそこで、江戸中期の大老師の白隠禅師の『座禅和讃』を引用されており、「白隠さんは何といっても『摩訶衍(まかえん)の禅定(ぜんじょう)』が大事だという。摩訶衍というのは、自分の悟りばかりじゃなく利他をも心がける大乗仏教のことだが、そういう大乗仏教の『禅定』つまり三昧をマスターすることで心は法と一致し、とびっきり自由な状態になるというのである」と書かれております。
 「そうなるともう求めるべきものは外にはない。頼るべきは、そういう状態になった我の心である。さまざまな縁起によっておこる不安定な我は『寂滅』し、そこには無相で無念の、ほとんど透明な我が『現前』する」のです。

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