―― 布袋和尚図(ほていおしょうず) ――
仏教の本(経典)には「摩訶衍(まかえん)」という言葉がよく出てきます。「摩訶」とは「大きい」ということで、「衍」は「水上を行く乗り物」という意味で、合わせて「大勢を乗せて進むことができる船」ということになりまして、禅を言い表す時に象徴的に使われる「大乗仏教」のことです。それは「自分だけで良し」とするのではなく、「皆で一緒に菩薩を目指そう」ということです。
ここで「人助け」ということが出てきます。玄侑宗久さんも本書の中で「白衣観音さま」を採り上げておられますが、この中で強調されているのが、人助けは「『人のタメ』と思わずにすることが肝要」ということです。
「人助けでも何でもそうだが、自分で苦しいと思いながらしていることは、必ず心を汚す。『私がこんなにしてあげているのに』、だから感謝すべきだとか」そのような思いが伴うと、「この上なく人の心を汚すのである」のです。
布袋和尚は臨済宗の実在の和尚です。中国へ行くと、この布袋和尚がなんと「弥勒菩薩」として祀られ、あちこちで、あの「がはがは」と哄笑しているそうです。「笑いはあらゆる問題を融和へと導く。笑いのなかに説かれた言葉なら人は耳を傾ける。『道は笑いに近し』という老子の言葉を俟(ま)つまでもなく、笑いこそ利他行の必要条件なのである」ということです。
ところでこの布袋和尚の「笑い」とは、おそらく和尚は、「『あんたみたいな人もいるんだなぁ』と笑っているのではないだろうか。自分とは違う在り方に触れたとき、年端(としは)もいかない頃には楽しかった気がする。しかしそのうち学校などで特定のモノサシによる仮の『正しさ』を仕込まれると、いつしか自分の仮のモノサシを絶対化して他人を図っていることに気づく。簡単にいえば自分と他人との違いは『柳は緑、花は紅』。つまり本来は全く比較しようのない存在である。そのことに心底気づいた花だけが、柳を見て哄笑できる。『どうして花を咲かせないの』などとタワケタことは考えない。柳だって花を見て哄笑しているはずなのである。それこそ以前にも申し上げた妙観察智というものだろう。見かけにとらわれず命そのものに共振すると、思わず笑っちゃうものなのである。『あんたもまぁ面白い人だなぁ』と」いうことです。
「むろん人助けに関しても、それが優れたことだなんて思っちゃいない。楽しいからしているのである」。「楽しまないで行われる善行は、されるほうにも迷惑だ。どだい善とか悪とかいう判断をやめたから、あらゆる人を笑って受け容れられるということだろう」。