―― 一期一会 ――
主に茶道の関係で使われることが多く、茶席の床の間の掛け軸で見受けられますが、茶道とはご縁の少ない方々にもよく知られている禅語で、玄侑宗久さんも「これほど有名な禅語もないだろう」とおっしゃられるとともに、「こんなポピュラーな禅語で最後を締めくくるだなんて、いい度胸じゃないかと、褒めていただけるだろうか?」と書かれます。そうです、この「語」が、本書『禅語遊心』のいよいよ最後の言葉です。
世に禅語に関する書籍は数多く出されていますが、それらの中でほぼ必ず取り上げられ、その解説も多岐にわたりますが、その基本的な言葉の意味「あらゆる出逢いが二度とない貴重な邂逅(かいこう)だという」ことのその内容については皆さんもよくご存知でございましょう。
このように“よく知られた”禅語を、「わざわざ最後にこの言葉を持ってきた」のには「その現実が余りに難しいからだ」と玄侑さんはおっしゃいます。
「たとえば昨日喧嘩した人と、今日はにこにこお茶が飲めるだろうか。駄目な奴だと思った相手に、三日後には刮目(かつもく)してまみえられるだろうか。また不仲な姑や嫁と、それまでの記憶を捨てて明るく挨拶できるだろうか」、と問われてもそう簡単には無理ではないでしょうか。
これと“対”をなすのが、この本の中で取り上げられている「前後際断(筆者注=少し前の時間から切り離され、また少し後のことを憂える気持ちからも解放される)」や「放下(筆者注=あらゆる所有物<身に負っているあらゆるもの>から解放される)」の努力が必要であり、「大死一番」をし、その「絶後に再蘇(再び蘇る)」しなければならない、その努力が必要なのである。すなわちその気になれば「一日に何度だって生まれ変わる」のです。
座禅をやられていない方にはこの辺は非常に不明な部分でしょうが、この“生まれ変わる”ということが座禅の一つのキーワドになります。
お茶席に呼ばれて、呼ばれた先のお茶室に入るところの「路地とは、脱ぎ捨てて露わになる場所である。コートだけでなく地位や名誉を脱ぎ捨て、貧富も学歴も脱ぎ捨て」て、そこに現れるのは個人としての素の自分だけです。そして更に、部屋に入る際に「まだ捨てきれないでいるものを入念に祓(はら)い落す」のです。
「そうして向き合った主客(筆者注=茶席の主人と客人)には、じつは世間がない。露わになるのは、仏性なのだ」ということになります。そして、その向き合った主客は、世間的な関係性は無論のこと“こうしたらよいのではないか”とか“こうすることが筋道だ”とかいった決まりや筋道を超えた遣り取りの世界がそこには存在するのです。
ふつう私たちは、「こうしたらよかろう、こうしないとマズイかな、と思いつつ行動している」はずです。それが例えば、仕事をする上での効率性だった、業務結果の均質性だったりで、企業組織の中でビジネスを続けていく上でなくてはならない規範ですが、そのようなパターン化は一人の従業員に固有に具有されているものではなく誰にでもとっかえひっかえできるものです。ところが、「砂場で一心に砂いじりをしている子供はどうだろう。大変だろうから、代わりましょうかって、そんな莫迦(ばか)な話は請け合わないはずだ。楽しくしているのだから、代わりのきくことではないのである」。
「一人の人生には、どうしたって他人任せにできないことも多い。食事、排泄、睡眠はむろんのことそうなのだが、そういう行動の種類に関係なく、本当は自分の行動すべてが砂場で遊ぶようでありたい」のです。「そう思うのが、禅」なのです。
「砂場で遊ぶ子供は、それによって何かを得るわけでもないし、褒められるわけでもない。むしろ服を汚して母親に叱られるのが関の山だろう。しかし褒められようとしてやっているのでもなく、叱られまいとしてしているのでもないから、それは致し方ないこと」なのです。
茶道にはいろいろな制約がたくさんありますが、(玄侑宗久さんは、茶室では主客は「じつは遊んでいるのだ」とおっしゃられる)「真剣に遊ぶというのは、とても危険なことだ。なぜなら、遊びの場では、予期せぬことこそが楽しまれるからだ。」そして、「無制約の遊びは危険すぎる。いつ終わるかも、何が起こるかも予想がつかないなんて、怖(こわ)すぎるじゃないか」ということで、「茶室には制約も多い」ということになります。
「たくさんの制約を無意識にこなせるようになって、人は初めて遊べる。禅僧が最も禅定に成りにくい坐禅によって禅定を修業するのと同じである。片や禅定を修し、片や遊戯を目指すといっても、結局は同じことなのだ。時を忘れずに時を忘れることもできるようになり、役も忘れずに役を忘れることもできるようになるのである」
「一期一会とは、忘れ得ぬ出逢いである。なぜ忘れないのかというと、それがこの上なく楽しい出逢いにできたからだろう」。「忘れ得ぬ思い出は、世間的因果的自己を忘れることで初めて可能になる。忘れることで忘れられなくなる」
そして最後にもう一つ、これは全くの蛇足になりますが、筆者はこの「一期一会」の語を思うとき、ある高僧の「天下の一大事というは本日只今のことなり」というのも思い出します。
最後の章は大変長くなって恐縮ですが、これを以って、玄侑宗久さんの『禅語遊心』を閉じます。