――― 趙州狗子 ―――
この公案「じょうしゅうくす」は、禅の世界では大変有名な公案です。
趙州和尚というのは、八世紀の中国の、これまた大変有名な高僧で、本名は「従諗(じゅうしん)」といいますが、彼の後半生に住まわれた中国の地名から、当時の中国の人達から尊敬の念を込めて「趙州和尚」を呼ばれています。
「ある日この趙州を一人の修行者が訪ねますが、彼は相当に禅の修行を積んでいると見え『犬には仏性が有るでしょうか、無いでしょうか』と、犬の仏性の有無を問います。趙州は『無』と答えます。この『無』がこの公案の〝眼〟です」。
「『仏性(ぶっしょう)』は、仏の本性(ほんしょう)(生まれつき具(そな)わってりる資質)で、仏の心・仏のいのちとも訳され、『すべての存在はみな仏になる可能性を具えている(一切衆生(いっさいしゅじょう)悉(しつ)有(う)仏性(ぶっしょう))』という≪涅槃経(ねはんぎょう)≫の思想が仏教の世界観です」。すなわち、生きとし生けるものはもちろんのこと、その他の無機物すべてに「仏性」がある、というのが「仏教の世界観」な訳ですから、この時の趙州和尚の答え「無(ない)」はこの思想に反している訳ですが、〔趙州和尚の答えは間違っている〕としてしまっては、この公案に対する解答(「見解(けんげ)」といいます)にはなっていません。ではどうするか? その〔解〕を求めて座禅の中で苦悶苦闘することを、この公案は我々に要求しています。
本書『公案夜話』の著者、松原泰道さんも、その修行を始めた最初に提示された公案がこの「趙州狗子」だったそうで、まだ若かった泰道さんも「大変苦労した」と本書の中で述懐されておられます。
「趙州のいう『無』は、質問者のいう犬の仏性が有る・無いの相対的な価値より一段高い場で統一した、いわば止揚された『無』なので、門者の二元的な次元とは全く内容が違うのです。よき先輩が片仮名でムーッとヒントを与えてくれたおかげで、私は観念でなく、すばらしい体験をさせてもらえたのです」