<第87回輪読会報告>玄侑宗久・鈴木秀子対談『仏教・キリスト教 死に方・生き方』 ーその第4回ーを受けて

【第1章 死にゆく人のためにできること】(その4回目)

―― 「仲良し時間」が訪れる ―― から想を得て

 「ホスピス」や「ターミナルケア(終末期ケア)」というものが注目されだして、各地にホスピスの施設が出来始めたのはいつごろからでしょうか。おそらくは世界の先進国の中で人口の年齢構成に少子高齢化傾向が表れ出して年齢構成がピラミッドの体をなさなくなり、そうした傾向は日本では特に顕著であり、世界のこの方面でのサンプルケースとして注目され出してからではないしょうか。
 「人はかならず死を迎える」という厳然たる事実と、お二方もおしゃられておりますが、日本人は昔から〝看取り〟というものを大事にしてきた国民です。ところが、戦後、特にこの何十年かの医学の進歩は目覚ましく、大幅な延命治療が可能となり、やや近視眼的に「少しでも長く生きて欲しい」という、主に〝残された人たち〟の思いが先立って、ホスピスケアというものがどんどん押しやられてしまった感が拭えないのですが。
 されど「人はかならず死ぬ」という抗しがたい事実が存在し、ご本人(死を目前にした人)にとっては、WHO(世界保健機関)の定義文(2002年)の中で言われる「クオリティー・オブ・ライフ」がいかに大事か、が今盛んに議論されているところです。なにせ、「死にゆく人」にとって、その最後の瞬間というのは〝人生の集大成の瞬間〟なのですから。やはり「主役」は、そのご当人本人であるべきではないでしょうか。
 しかし、傍からは「意識が混濁(こんだく)」したかに見えても、玄侑宗久さんのおっしゃるように、どんなに苦悶しているように見えてもその瞬間は九九パーセント以上の方が穏やかなお顔になって、鈴木秀子さんのおっしゃる「仲良し時間」が訪れるのでしょう。その〝時〟にそのご当人がたとえ異次元に飛んでいたとしても、そのご当人にとって一生に一度のかけがいのない時間なのでしょうから、その時を周りの「番頭さん」たちがとやかく決めてしまうのは、それがもしご当人の意に沿わないことになれば、それはどれほど気の毒なことでしょう。
 周りの人たちは、決してそんな積りはないのでしょう。ですが、鈴木秀子さんがおっしゃるように「周りにいる人たちは準備ができていないんです」。その「周りにいる人たち」というのは、多くの場合、突然の喪失感に襲われてただおろおろするばかりであるだとか、更にもっと世俗的な見方からすれば「お葬式の準備はどうするか」とか「残された後の物はどうするか」とか、そんなことまでが頭の中に巡るのでしょう。
 鈴木秀子さんがおっしゃる「周りにいる人たちの心の準備」とはどういったものなのか。それは、「死にゆく人」と向き合ったときに周りの人たちは、何も心の準備などせずに、頭の中で何も想像を巡らさずに、ただ虚心になってその人と向き合わなければならないのではないのか、と思うのですが。
 そこで私たちは一般人といえども坐禅の修業をやっているものですから、この「虚心になる」というとき、坐禅のときによく言われることですが「〝己〟というものをいったん棚上げにする」という作業をすることが頭に思い浮かぶのです。
 その人と向き合ったとき周りの人たちは、悲しいのはしょうがないにしても、一人ひとりそれぞれが、独自の記憶や頭の中に去来するその離別ということに対する思いといったものを、そのそれぞれがいったんすべて〝棚上げ〟してみてはどうでしょうか。何も先入観を持たず、何も想像を巡らさずに〝その人〟と向き合うのです。そうすれば、最後を迎えた〝その人〟が、そのとき何を表現し何を伝えたいのかが、空っぽになった周りの人たちの心に沁み込んで来るのではないでしょうか。その時がきっと「仲良し時間」となるのではないでしょうか。

カテゴリー: ブログ, 輪読会 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です