<第88回輪読会報告>玄侑宗久・鈴木秀子対談『仏教・キリスト教 死に方・生き方』 ーその第5回ー

【第1章 死にゆく人のためにできること】
※ 今回は「第1章」の5回目です。

  ただ寄り添う 

玄侑宗久(以下、玄侑) 先生は、亡くなろうとされている方を訪問したとき、実際にはどういうことをされるのですか。意識がはっきりしていて、心のうちを打ち明けるとは限らないのでしょう。
鈴木秀子(以下、鈴木) 来てほしいと頼まれるのは、たいていがもうお医者さんが投げ出してしまったぎりぎりの状況です。意識が混濁している方や苦しそうにあえいでいる方たちです。
玄侑 そういうときはお祈りをするのですか。
鈴木 自然に手が伸びて、その方の胸のあたりに軽く手を置き、呼吸を合わせます。ハッハッと短い苦しそうな呼吸をしているときは、こっちもそれにあわせてハッハッと。肺炎で高熱が出ているような方は、意識がうつらうつらで呼吸も乱れています。息を合わせていると、その方がどんなに激しい息遣いをしているのかがよくわかります。だから私も一緒になって呼吸を合わせながら祈ります。大丈夫、私はここにいますよ、苦しいことは分かっていますよと・・・。だんだん吐く息を延ばしながら祈っていると、その方の呼吸が落ち着き、表情も穏やかになってくることがあります。
玄侑 そばにいて、わかってくれる人がいることで安心するのでしょうか。
鈴木 そうでしょうね。そうしたら、名前を呼んで「何か言っておきたいことはありませんか」とか「思い残すことはありませんか」とお聞きします。やはり呼吸を合わせながら。すると、それまで苦しんでいた方が目を開き、語り始めることがあるんです。
玄侑 どうしてもいっておきたいことがある、それで最後の力をふりしぼるんですね。そういう力は「死なないで」とか「がんばって」という声かけだけでは出てこないんでしょうね。
鈴木 ええ。なかには、そろそろ起き上がって膝を寄せて、小さい子供のように顔を伏せて泣き出した方もいらっしゃいました。人に慕われた地方の名士がその瞬間、小さい男の子に戻ったのか、泣きじゃくりながら「かあさーん」と。津軽の太原紫苑(おおはらしおん)さんが一緒で、紫苑さんがその方の後ろに回り、小さな子供を抱きかかえるように肩を抱いたら、かすかな声で「かあさーん」と。紫苑さんも同じような声で「はーい」と答えました。それが何度もくり返され、それから、ゆっくり横になって、そのまま亡くなりました。紫苑さんと周囲の方々が歌う歌を聞きながら。「かあさんが夜なべをして手袋編んでくれた・・・」、小さいころから大好きな歌だったそうです。穏やかな、立派な最後でした。
玄侑 やはり死を迎えようとする人には、寄り添うこと、すべてを受け容れてくれる人がそばにいてくれることが必要なんですね。
鈴木 ご病人が安心して胸のうちを語れるのは、やはり自分が何を言っても動揺しないで聞いてくれる、安定した精神状態にある人なんじゃないでしょうか。

  悲しみを通り抜ける

玄侑 送り出す家族にしても、無理をすることはつらいことです。
鈴木 ええ。誰かが病気になったとき、まず家族が心のなかでわめく番頭さんの声をできるだけ静めさせ、事実だけを認める必要があると思うんです。今、愛する人が病気だという事実、危険も伴うという事実。泣きたいときは泣けるだけ泣いて、事実を受け容れる準備をする。
玄侑 思いっきり泣くことも必要ですね。
鈴木 その段階では泣いても、わめいてもいい。「何も悪いことをしていないのに、なんで自分たちだけ」とか、「もっと悪い人があんなに元気でいるのに」とか、いっぱいある恨みつらみはできるだけ吐き出したうえで、動かしがたい事実として本人も家族も受け入れていかないと。
玄侑 そのあたりで我慢してしまうと、かえってつらいことになる。
鈴木 親しい人が亡くなれば、悲しくて苦しいのが当然で、誰だって悲観の時期を過ごさなければなりません。だけど現実にはお通夜やお葬式から、初七日、四十九日と慌ただしい中で時が過ぎていく。悲観のプロセスを通過していく準備がお寺のほうでできていますね。
玄侑 初七日は、「初願忌(しょがんき)」と言って、初めて願う日。家族が亡くなった後、死をどう受け止めて、その後自分はどう生きていくか、最初の誓願を立てる日なんです。その誓願にしたがって前向きに生きていく。悲しそうに暮らすことが喪に服することではありません。四十九日は「大練忌(だいれんき)」で、大事な人がいなくなった時期の過ごし方を、まあまあ練習する、ということ。百箇日(ひゃっかにち)は「百朝忌(ひゃくちょうき)」。朝というのはけっこうつらい時間なんです。朝になると「あ、あの人はもういないんだ」が多い。そういうつらい朝を百過ごしましたということで「百朝忌」。
鈴木 逆にいえば、悲しみを卒業するのに百日かかる。こうしちゃいけない、ああしちゃいけないとか、家族はどうするべきかということではなく、いずれは卒業しなきゃならないけれども、こういう時間が必要だという考え方です。

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