<第86回輪読会報告>玄侑宗久・鈴木秀子対談『仏教・キリスト教 死に方・生き方』 ーその第3回ーを受けて

【第1章 死にゆく人のためにできること】(その2回目)
―― なくなる瞬間、穏やかになる ―― から想を得て

 「なくなる瞬間」というのは、〝人〟として、どの人にとってもおしなべて一大事であり、その人に纏わる周囲の人、その人を知る人にとってもとても重大な出来事です。ですから、それに関する表現は「臨終、危篤、往生際、今際(いまわ)・・・」と数えきれないほどあります。そして、感性豊かな日本人はそれらを見事に使い分けています。ということは、「人の死に方にもいろいろある」ということでもあるのでしょう。
 今回のページでは、まさに人の「死にゆく瞬間」に際してのお二方のお話を聴かせていただけました。玄侑宗久さんは僧侶として、亡くなられた方々の葬儀の場に立ち会われておられ、特に、東日本大震災の時はその数は大変だったろうと思わずにはいられません。一方、鈴木秀子さんは、日本の「ターミナルケア」の草分け的存在であり、海外で、この方面での先進的な取り組みや実際の臨床の場でのご経験を積まれてこられました。ですから鈴木さんは、この方面での専門家でもあられるわけです。
 馬齢を重ねただけで歳をとってきてしまった筆者にとっても、この問題は決してそう遠い話ではないので関心がなかったわけではないのですが、若いころに比べて、たまさか何かの折にこれらに関する情報に接したときにその情報のより詳細な内容に目がいくようになったとか、同年配の人たちとの会話の中でひょんな話の展開がこれらのことに触れることがありましたが、それでも「どうせ死ぬんだから」ぐらいの認識で、その〝瞬間〟よりも、むしろそこにいたるまでの方に、すなわちガンにかかって余命宣告を受けるだとか突如不治の病に侵されるだとか、まさにその方の関心が強く、今までにこれほど自分の身内だとか身近な人達の死に接してきていながら、ここまでの私はその無関心のそしりは免れません。無論、「死にゆく瞬間」に対する一般的な興味はありました。けれどそれは「臨死体験に対する興味」と大差ない程度のものでした。ところが、今回この本に接して眼を開かれました。
 先日、ある著名な社会学者の方の講演を聴く機会の恵まれました。メインテーマは高齢者の人の医療並びにケアに関するもので、当然ながら「死をどう迎えるか」はお話の重要な要素でした。講演の詳細は省きますが、年齢の老若に関わらず、死の迎えた人に対し〝周囲〟がどう対応するか、ありがちな、「臨終まで看取る介護施設に預ける」だとか、「ホスピスに委ねる」だとか、「終末医療まで幅広く手掛けている病院を探す」だとか、今日ではその選択肢がこれほど多岐にわたっています。かてて加えて、昨今、「在宅での看取り」ということが大変話題になっています。でも、考えてみればこれらの多くは、実は周囲の〝残された人たち〟のその人たちの日常との折り合いの問題が大きく、また、その人たちの心のあり様(「愛する人へ悔いが残らないように」というような残された人たち自身の心の問題)に関するものなのではないのか、と言うのがその講演者の方の指摘していることでした。
 以前あるところで、「葬式は残された遺族のためにやるものだ」ということを聞いたことがあります。ほんの軽口程度のものだったと思いますが、ある意味で核心をついているともいえます。
 ことほど左様に、「死にゆく人」に対する周囲の(おもに遺族の)対処の仕方、というものがこれまではないがしろにされていたのではないか、ということを、このお二人の対談は自省を込めて考えるきっかけになりました。
 現代は「人生百年時代」とも言われ、私を含め今日これほどまでに高齢者の人口が増え、彼らは(私は)如何に健康的に長生きをするか、が最大の関心事であり、「ピンピンコロリが望みよ」などとニコニコしながら(内実はけっこう切実なのですが)しゃべり合っています。医療保険制度や介護制度が充実し、医療技術そのものも大きく発達し、「死」というものが技術的に〝先延ばし〟になってきています。けれども確実に死を迎えるのです。
 「なくなる瞬間」というものがその人(死にゆく人)にとって如何様なものか、どうあることが望ましいのか。このことに関してのお二方のお話は、単に、その為されておられることに関わる造詣の深さと言うだけではなく、お二人が〝人〟とは、どのような状況にあってもその心とは不可分であり続け、それは「その瞬間」であってもなくなることはなく、だからこそ「死にゆく人」のことを慮るのであれば、その人の最後の瞬間まで心をくだき、その人と同化することが大切だ、またそれが可能なのだ、とおっしゃいます。
 玄侑宗久さんの「自分は今、ちょっと違う世界に来ている。ところが、それを詳しく説明する体力も気力もない」という言葉、鈴木秀子さんの「自分のことをわかってもらいたいという気持ちが強いですね。多くの場合、死期が迫っている人は、自分が死ぬことがよくわかっているんです。もがき苦しんでいて松の苗木のように見えながら、心はとっても穏やかで、温かいものに満ちていると言われます。そして、いよいよこの人生が終わるというときに、ふっと次元の違う世界に入ると、一緒に生きてきた人たちへの温かい大きな思いが広がって、それを伝えたいという気持ちになるようです」というところ、私たちが知りえなかった世界、知ることを怠ってきた領域でした。

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