<第92回輪読会報告>玄侑宗久・鈴木秀子対談『仏教・キリスト教 死に方・生き方』 ーその第1回ー

第二章 あの世とこの世を行き来する(その8回目)
  ( 今回より第二章に入ります)

―― お釈迦さまは「死」を語らなかった ―― 

玄侑宗久(以下、玄侑)私は今「死の周辺での心の交流」をテーマに執筆活動をしているのですが、これは鈴木先生の、死と向き合う活動と一致するように思います。
 死について意識できるのは人間だけだと言われていますね。だけど「死」についてまともに質問されることはめったにないんです。みんな意識しても、あまり考えたくないのでしょう(笑)。
 実際、質問されてもよくわからない。死んだことがないから。お釈迦さまも、死後、人間はどうなるのかについてはいっさい語らなかったと言います。「あいつは分からないから話せないだけだ」と非難されても、ずっと沈黙を守られた。
鈴木秀子(以下、鈴木) 語ってもわからないから、語らなかったのではないでしょうか。
玄侑 結局、死の過程で起こることは意識の変容であって、そういう特別な意識状態というのは、通常の理知的な意識状態にある人には説明してもわからない。
 簡単にいえば、死というのは言葉が届かない世界、自分自身が死に直面して初めてわかるものだと思うんですね。ところが、特に共産主義を体験した後は、「わからないことはないことと同じ、だから死後の世界などありえない、信じない」と考える傾向にある。
鈴木 そういう方が知的だと思われるようになりましたね。
玄侑 だから、鈴木先生とか私のような立場にある人間が死について語り始めなければいけない。わからないままほうっておいてはいけないという感じがます。

―― 死んだら生まれ変われるか ―― 

玄侑 キリスト教では、死んだら人の魂は天国に召されると考えているでしょう。
鈴木 聖書の中には地獄の話もあります。だけど、地獄の話はどうも道徳と結びついているようですね。神学と外れるかもしれませんが私は、人は誰でも許されて、神のもとに召されると考えています。
 子供を愛する親が「この子は悪いことをしたから永遠に地獄に追放する」といって見捨てるでしょうか。神はご自分の子供である一人ひとりを親以上に愛し抜かれていると言われています。愛そのものの神が、愛し抜かれているわが子を見捨てるでしょうか。
玄侑 仏教では死のことを「四大(しだい)分離」という。四大とは、「地大」は骨や爪(つめ)の堅さをつくる働き、「水大」血液やリンパ液などをつかさどる働き、「火大」は体温を保つ働き、「風大」は手足や心臓が動く働き。この四つがあつまって人間は誕生する。この四つがほどけて分離するのが「死」であると。
 死ねば肉体はほどけるのは、誰でも知っています。皆さん知りたいのは、魂がどうなるかということ。「魂」という言葉はもともと中国の言葉で、簡単にいえば、中国では死者の世界は「鬼(き)」という言葉で表現され、「幽界(ゆうかい)」のことです。霊界の場所は、とにかく暗くて寒い場所です。中国ではやはり浄土教(じょうどきょう)が誕生して、「極楽」がクローズアップされた。極楽とともに地獄も生まれたわけですが、浄土教では、阿弥陀仏(あみだぶつ)を信仰してさえしすれば誰でも極楽に行けると教えました。そのせいでしょうね。日本ではほとんどの人が「死ねば極楽に行ける」とか「死んだ親は極楽にいる」と信じ込んでいるようです(笑)。
鈴木 仏教には「輪廻(りんね)」という考え方がありますね。
玄侑 ええ。インドやネパールでは一般的です。死ねば何かほかの生き物に生まれ変わり、新しい肉体をもてる。だけど、そういう考え方は仏教が中国を通過する過程で排除されました。
鈴木 自分の先祖がウマやブタだったり、自分が虫けらに生まれ変わったりするのがいやだったんでしょうね。
玄侑 先祖を大事にする国ですから。だけど、インドの人はそう考えない。もっと自由です。死んでしまえば、もうそれまでの肉体には用がないわけです。だから、死んだ人はどんどん燃やしてしまいます。そういえば、キリスト教ではごく最近までは火葬を認めていませんでしたね。
鈴木 ずっと土葬でした。カソリックの人たちが火葬をするようになったのは公会議の後、四十年ぐらい前からではないでしょうか。
玄侑 天国入りを待つ肉体を燃やしてしまうなど、とんでもないと。日本でも、最初に火葬が行われたときは残酷だ、すごい抵抗があったようです。はり浄土教の登場で、極楽浄土という発想が広がってからはあまり抵抗がなくなった。浄土教というのは、死後のビジョンを明示する点ではすごい宗教です。

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