<第89回輪読会報告>玄侑宗久・鈴木秀子対談『仏教・キリスト教 死に方・生き方』 ーその第6回ー

【第1章 死にゆく人のためにできること】(その6回目)

―― 嘆いていると成仏できない ―― 

鈴木秀子(以下、鈴木) 私の友人が亡くなったときのことですが、いよいよ最後が近づいたとき、「何か言いたいことがある?」って訊(き)いたら「一つだけある。私が死んじゃった後、家族に悲しまないでほしい。嘆き悲しんだりしないでほしい」って。私は「そのことをちゃんと伝えるから」って約束しました。けれど、悲しまないというのは、けっして悲しみを圧(お)し殺すことじゃないと思う。存分に悲しんでいいんです。悲しんでいいんだけど、そこを抜けた後は、みんなそれぞれ前向きの人生を生きてほしいという意味だと思う。だから「それがお母さんの願いだった」と子どもたちには伝えました。もちろん、祈りを捧げたり、お墓参りをしてもいい。だけど、ほんとうの供養というのは、お母さんが今の自分たちを見ていたらきっとうれしいだろう、喜ぶだろうという、そういう生き方をしていくのが最高の供養だと思うんです。
玄侑宗久(以下、玄侑) いなくなったことを家族が悲しんでいる間は、亡くなった方も成仏しないと思ったほうがいいですね。
鈴木 だけど、子どもに自殺された親の苦しみは本当に大変です。「何が悪かったのだろう、自分たちの何がいけなかったのだろう」というので番頭さんがわめき立てる。番頭さんがいちばん大きな声を上げるのは、子どもに自殺された人たちでしょう。
 ※番頭さん=本章の「2回目」の時に鈴木秀子さんが言われた、人が窮地にある時に
  心の中、内面にあって頭をもたげる「常識」、「世間体」、「社会規範」などの人を
  縛り付け規定してしまう社会標準のような判断基準、またそれを叫ぶ声。
玄侑 それはずっと続いて、なかなか静まってくれません。
鈴木 そういうときにせめてもの助けになるのが、天国、極楽という考え方かもしれませんね。
玄侑 その子は天国に昇ってようやく安らかな居場所を得た、極楽に行って幸せに暮らしているんだから・・・。
鈴木 キリスト教でも、あの長い『旧約聖書』のどこにもない。だけど『新約聖書』では、イエスが亡くなる前に「自分は先にあの世に行ってみんなが来る場所を備えておく」と約束をしています。
玄侑 仏教でもあります。
鈴木 やっぱり、そんなふうに思うことで残された方もほっとしますよ。そんなふうに思わなければ、いつまでたっても悲しみは癒(い)えない。
玄侑 その意味で、死後の居場所というのは大きな救いになりますし、私たちの役割も重要ですね。医者であれ、宗教家であれ、現場に身を置く方の誰もが、これが正しいというビジョンはないけれど、わからないという基本的なスタンスのなかで、どれだけバラエティを持った物語を処方できるか。私たちはそういう立場にいる。
鈴木 どんな人の、どんな物語にも寄り添えることが大事ですね。
玄侑 どんな物語をもっている人にも「寄り添える」ということが、人を見送る態度の基本になる。否定してしまっては寄り添えない。わからないというスタンスのなかで寄り添う。

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