<第90回輪読会報告>玄侑宗久・鈴木秀子対談『仏教・キリスト教 死に方・生き方』 ーその第7回ー

第1章 死にゆく人のためにできること(その7回目)

―― 科学と宗教は合流する? ―― 

鈴木秀子(以下、鈴木) 医療の現場、お医者さんや看護師さんたちの意識も変わり始めています。まだまだ生かすための医療が主流ではありますが、病院やお医者さんによっては、患者さんが最後のひとときを家族や親しい人たちと穏やかに過ごせるような工夫を始めています。
 私のよく存じ上げている神戸の甲状腺科の先生は、病院を改築するときに臨終の人のための部屋をつくりました。一般の個室に畳敷きの十畳間が続いているから、大勢の家族が一緒に寝泊りできるようになっているんです。
玄侑宗久(以下、玄侑) それはありがたいことですね。
鈴木 その先生は「人間にとって最も大切な時間は死ぬ時だ」と考え、人生最後の時間は親しい人に囲まれ、心おきなく過ごすことが大切だと。どうしても病気が治らないのなら、最後の瞬間を豊かなものにしたいという発想から生まれた部屋です。
玄侑 ほんとうは住み慣れた我が家で、家族と一緒に最期を迎えるのがいちばんでしょうけど、なかなかそうはいかないから。
鈴木 ええ。実際にその先生は、死ぬ前にどうしても家に帰りたいというおばあさん、そのおばあさんは末期の喉頭ガンでもう声も出ないのですが、筆談で「家に帰りたい、家に帰りたい」と訴えるんですって。だから「一時間だけ」という条件で、息子さんが背負って、先生も一緒に付き添った。息子さんと二人だけで家に入って、先生は玄関で待っていらしたそうです。家の中からは物音も聞こえないでしんと静まり返っていたんですね。二人の間でいったいどんな筆談が交わされ、どんな時間が過ぎたのか、先生にもわからない。だけど一時間後にふたたび息子に背負われて出てきたおばあさんは、ほんとうに晴れやかな顔をしていたそうです。それで息子さんが「すみました」と。
玄侑 ただ二人で並んで座っていただけなのかもしれませんね。でも、それが人生の終わりにあり、おばあさんが一番必要としていた時間だった。
鈴木 先生がおっしゃっていました。医者ができることは、薬の処方や注射を打ったりするだけではない。患者さん本人の望みをできるかけかなえてあげることだと。
玄侑 私は僧侶で一応作家ですが、宗教と文学のかかわりに興味がありますが、もう一つ医学とのかかわりですね。医学と宗教はなかなか合流しにくいかもしれませんが、状況も変わっていくのではないかと思うんです。今ははっきりした道が見えてないけれど、やがて合流していくのではないかと。
鈴木 ええ。私もそういう気がしています。
玄侑 人間が病むのは全人的で、精神も肉体も含めたもの。だから、宗教行為はすなわち医療行為ということもあるしその逆もあり得る。実際、誰かに抱きしめられただけで病気が治ることもある。「癒す空気」ででしょうか。そもそも人間には自然治癒力が具(そな)わっていると言いますが、その実態はいまだに厳密には分かっていない。
鈴木 ほんとうに不思議です。
玄侑 ちょっと突飛ですが、私は仏教を見直すうえで遺伝子の存在に注目してみたいと考えている。
鈴木 遺伝子ですか。
玄侑 たとえば唯識仏教(ゆいしきぶっきょう=一切の存在は自分の心が作りだしたものだと考える学説)でいう阿頼耶識(あらやしき=アーラヤ識=人間存在の根底を成す深い意識の流れ)とは遺伝子のことではないか。あるいは『華厳経(けごんきょう)』のなかの万物が生まれでる水中に咲く白い花というのは細胞核のことではないか。『華厳経』では大きな花にも小さな花にも同等のいのちが宿るという発想がありますが、それこそ遺伝子そのものではないでしょうか。
鈴木 昔は遺伝子だなんて認識はなかったから、花にたとえたのかも知れませんね。

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