4月 11日 松原泰道著 『公案夜話』-第12回〔趙州喫茶去〕

 ――― 趙州喫茶去(じょうしゅうきっさこ)—お茶を召し上がれ ―――

 これはこれまでに何度か出てきた、中国・唐代の禅僧趙州和尚の常套句です。趙州和尚は自分のところへ訪ねてくるどの客にも「喫茶去(じょうしゅうきっさこ)」、「お茶でも召し上がれ」と声をかけた、と言われています。これをいぶかんだ寺の管理職(院主)が「老師はなぜどのお客様にも喫茶去と言われるのですか」と尋ねると、和尚は間髪を容れずに「院主さん喫茶去」と言われたといいます。「お茶を飲む」ということは、当時からごく日常的な営みでした。
 趙州和尚は相手が誰あろうと、「差別することなく同じく『喫茶来』とすすめるのです。相手が偉かろうと偉くなかろうと、すすめるお茶の味に高下はありません。いわゆる『一味(いちみ)』です。一味は、他の味をまじえない一つの味という意味から、平等・無差別・純粋を意味します」。
 趙州和尚は訪ねてきた相手に「ここへ以前にも来たことがあるか、どうか?」と問います。一人は「前に来たことがあります」と答え、一人は「はじめて来ました」と答えます。この趙州和尚の「ここへ来たことがあるか?」には大変深い含意が秘められています。それ故、「来たことがあります」と「はじめて来ました」という真反対の答えには、その立ち位置が別次元にあることを示していますが、それら双方のこと、更にはそれらを蘇介添えしていた院主さんに対しても和尚は、委細構わずに「喫茶来」という日常会話で受け流しています。
 その意味するところは非常に深淵で「『趙州喫茶来』の公案が、禅者にとっては難問中の難問とされるのです」ということになります。

カテゴリー: 輪読会 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です