藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第21回ーを受けて

【第3章 坐禅の効用って?】

 ―――― 坐禅をやると、なにかいいことある? ―――― から想をえて

 「坐禅会(私どもでは「静坐会」と言っています)に来る人って、どんな人が多いんですか?」という、伊藤比呂美さんの質問は、坐禅に少しでも興味を持たれている方なら、どなたでも「聞いてみたい」質問でしょう。「もし、自分が坐禅をするとして、他にはどんな人が来るのだろ?」。それに対し、藤田一照さんの答えは非常に具体的です。
 私どもの静坐会でも、初めて来られる方には「どのような動機でここに来られましたか?」という問いかけはします。しかし、大部分の方のお応えは、「前から坐禅には興味があった。Netでこの会のあること知りました」とか「この場所の前を何度か通ってこの会のあることを知っていた」というお応えです。そして、私どもとしても、それ以上に深くはお聞きしていません。それに、アンケートをとってみたこともありません。それぞれの方にはそれぞれのもっと深い動機はおありなのでしょう。坐禅会(又は静坐会)は、メンタルケアのカウンセリングをする場ではないのです。私どもと一緒に、「ただ集中して坐る」という以外には何もやることはありませんし、何もご提示できるものがないのです。
 ここに書かれているように、たしかに「年配の方が多い」のも私ども静坐会でも同じです。「もっと若い方たちも・・・」とも思いますが、人数としては非常に少ないのが現状です。年配の方々が沢山集まる、それで全然かまわないと思っています。けれでも、男女を問わずに出来るだけ幅広い年齢層の方たちの集まっていただければ、と一方では思います。年配の方々が来られる動機としては、一照さんがここでおっしゃられるようなことではないか、とは私にも想像できます。
 比呂美さんのおっしゃられる「・・・リタイアする前に来ればいいのにね。そうすることで社会は変えられるし、人生を変えられる」というのも、私なんかもよくそう思います。斯く言う私は、現役のサラリーマン時代から坐っておりました。「社会は変えられ」たとはとても思えませんが、やたら時間ばかりはかかっていますが、もし「坐禅をしていなかったら・・・」私の人生はもっと別なものになっていたろう、とは内心非常に強く思っています。リタイアメントしてからでも決して「遅い」などということはありません。私の個人的な感想を言わせていただければ、年配の方(世のそして人生の酸いも辛いも充分に噛分けておられる方)の坐り続けておられる姿は非常に好きです。でもそれとは別に、若い方たちがいろいろ問題を抱えて悩みを深くされている現状の社会にあって、その対処として、一度坐ってみるのも非常に効果のあることだとは、我が身を振り返ってみて断言できることです。
 「若い方々の坐禅をするきっかけづくり」は、私どもも考えなくはありませんが、この本章に書かれているように、そして私が上にも書いたように、「ご利益を得られるような何か」をご提示できないのが坐禅たるそのものです。
 比呂美さんのおっしゃられるように、たしかに「坐禅の効用」として、「たとえば自信がついてくるとか、落ち着いて物事に対処できるようになるとか」というのはあります。しかしそれは、そのすぐ後に一照さんがおっしゃられるよう「それはあくまで『副産物』」でしかありません。すなわち、坐禅の目的はもっと別なところにあるのです。それではそれは何か?
 「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉は、坐禅の千数百年の間守られていたポリシーで、坐禅を特徴づけるものともなっています。知られた言葉なので多くの方が目に触れられているかお聞きになられていると思いますが、端的には「坐禅の真髄は言葉や文字で人に伝えるものではなく以心伝心で手渡されるもの」という理解でしょうか。上記の「それは何か?」も、ビジュアルに見たり聞いたりするものではなく自分自身で「会得」するものである、ということになります。この辺の坐禅の不明確さが「坐禅はわかりづらいもの」、「坐禅のとっつきにくさ」と思われ、坐禅の壁を高くし、触れる機会があってもそれが継続に結びつかない大きな要因かも知れません。けれども、私どもも「言葉や文字で伝えるものではない」ということの重大な意味と、それによって得られる大きな効果を知っている積りです。もしその禁を破ったら、坐禅の根幹を崩すことになります。ですので「伝えられない」のです。
 やゝ愚痴めきますが、これが平素私どもの心の底に沈殿している想いです。

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