<第74回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第21回ー

【第3章 坐禅の効用って?】
※ 今回は「第3章」の1回目です。

 ―― 坐禅をやると、なにかいいことある? ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) 日本で坐禅会にくる人って、どんな人が多いんですか? 
藤田一照(以下、一照) 動機はいろいろで、生きる意味やかくじけそうな自分を支えてくれるものを探しに来るとか、あとは、リタイアした後に、今まで手を付けられなかったスピリッチュアリティ(霊性、精神性)の追求や、死を意識して自分を見つめなおすとか。そういう時間を持ちたいと考えてくる人も多いみたいです。心の安らぎとか拠り所、人生の深さってものを見つけたいとか。
比呂美 本当はリタイアする前に来ればいいのにね。そうすることで社会が変えられるし、人生を変えられるのに。
一照 そうなんですけど、残念ながら現役で仕事をしている間は皆さんなかなかそんな暇がないらしいです。現実の社会の構造というのも、そういう「別のパラダイム」に行ってしまう人がなるべく出ないようにしている。若い人は、そんなことはちゃんと家庭をもってからにしなさいとか、経済的に安定してからにしなさいとか。
比呂美 たしかに坐禅会などに来るのは、比較的年配の人が多いですよね。じゃあ若い人たちに坐禅会を伝えるには、何がポイントなんですか。
一照 一般に宗教でよくやるのは、「これをやったらこんないいことがありますよ」と効能書きを述べることだよね。新興宗教というのは、だいたいそういう特徴があるでしょう。「これを信じたら、こうなった」「うちに入信するとこんないいことがありますよ」という現世的な利益を前面に押し出して信者を獲得する。恋人が見つかるとか。宝くじが当たるとか、お金が貯まるとか。
比呂美 そんなバカな話があるわけないでしょう。
一照 でもそれで人がいっぱい来るんですよ。そういうご利益みたいなものをみんな探しているんですよ。人生をまじめにやってるのに、なかなかうまくいかない人は、何か超越的なものに頼りたくなるものです。「うちでそれを与えてあげますよ」とか、どこかの神や仏とか超越的な存在にみえる教祖さんが居たり。でも禅は伝統的にはそういうことをほとんど言わない。だから当然流行らない。比呂美さんに「禅は高踏的」なんて言われる。
比呂美 禅でもね、恋人が見つかるとか、お金が儲かるとかいえば、若い人が来るかしら。
一照 うまく宣伝すればそういうものを求める人が一時的には来るかもしれませんけど、結局「噓つき」とか言って去っていくだろうね。禅はそういうことに関して何の役にも立たないもの。擇木老師なんか「坐禅は何にもならん!」なんて最初からはっきり言って。
比呂美 だけど禅をやると、いいことってあるじゃないですか。たとえば自信がついてくるとか、落ち着いて物事に対処できるようになるとか。
一照 うん。結果として「自分が調う」とか、そういうことがあるとは言えます。でもそれはあくまで「副産物」。
比呂美 自分が調ったら、異性にモテますよ。自身がついて、前向きで、余裕があって、何事に対処するにも自分を失わず、穏やかになれる。人に好かれますよ。そこを強調すれば、若い人も禅に関心を持つかもしれませんよ。

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