<第81回輪読会報告>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第28回ー を受けて

【第3章 坐禅の効用って?】

 ―――― 何もアテにせず、ただ坐りなさい ―――― から想をえて
 
 曹洞宗で行されている只管打坐はすばらしいものだと思います。世に「純禅(或いは純粋禅)」という言葉がありますが、只管打坐によってある境地に至る様は、まさに純禅そのものだと思います。そして、それを完遂されておられる方々は、私なぞから見ればまばゆいばかりです。我々(いや私だけ)悲しいかな凡夫の、その仕儀としての修行への生半可な取り組みゆえに、とてもその行には至りません。
 然るがゆえに、いや万やむを得ず忸怩たる思いを引きずりながら「数息観」を修しておるのでございます。けれども決して、「今よりちょっとましな人間になった」、「ストレスが少なくなった」、「今まではすぐムカッと来ていたけど怒らなくなった」などを目的として数息観をやったことはありません。やっていることは飽く迄も“坐禅”を修せんがためのものであり、坐禅をせんがための凡夫のその方途でしかありません。
 そして、それにさらに「公案の工夫」が加わります。数息観と公案の工夫は決して同列のものではなく全く別物です。行きつ戻りつしながら頂いた公案に取り組み、1則1則、それこそ何度も何度も足を踏み外しながら「はしご段」を登っていくのであります。これなども、凡夫である私などの禅修行には大変有効と思えるのですが、これも「人間が考え出したメソッド」になり、邪行になるのでしょうか。
 今回も「マインドフルネス」が大きく取り上げられております。前回の繰り返しになりますが、私も、マインドフルネスに代表されるような瞑想一般と禅とを混同することには疑義を憶えます。私どものやっている「市川静坐会」でも、“静坐会”と銘打っているためでしょうか、「瞑想の会」という意味合いを以って来られる方も少なくありません。そのような方々には、私は最初に「禅と瞑想とは違います」というお話させていただいております。それゆえに、それ以来こられなくなる方もおられますが止むを得ないと思っております。著名な禅指導者の方の中には「瞑想もいいのではないか。それをみっちりやることによって、禅へと誘いも有り得るのではないか」というようなことをおっしゃられる方もおられますが、今日、世間の人々の抱く禅への憧憬のようなものと、それとは別な有り様なのかも知れませんが瞑想の流行がこれほど混然と併存している状況で、禅と瞑想を画然としておくことも必要なのではないかとも思います。
 今回の回で「第三章」は終了です。今回を以って、この『藤田一照:伊藤比呂美対談 禅の教室』は終わろうと思います。

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