<第82回輪読会報告>ないがままで生きる ・・玄侑宗久 ーその第1回ー

 ―――― 〔はじめに〕「無分別」という平和 ――――
 
 近頃、臨床心理士であった河合隼雄(はやお)氏の講演録を読んでいて、とても感動的な話に出逢った。
 氏はうまく話せない相談者に向き合ったとき、ひたすら余計なことを言わず、相手の沈黙に合わせて自分も黙るというのである。
 ずっと黙っていると、ヘタをすると睡(ねむ)くなる。しかしそれだけは避けつつ明晰(めいせき)な状態を保ち、意識レベルを下げたまま黙りつづける。
 ご本人もおっしゃるのだが、これはまさに坐禅や瞑想と同じである。相手の心に中に手を突っ込むような言葉を発せず、そうして一緒に黙っていることで氏は相手とずっと一緒にいることができるという。
 しかも不思議なことに、相談者である不登校の高校生は、そうしてほとんど話さずに帰っていったあと、「あれだけ高校生の気持ちがわかる人はいない」と両親に話したらしい。河合氏自身は「私はなにもわかっていない。わかっていることといえば、彼が高校二年生で、学校に行っていないことくらいです」と語るのだが・・・。
 これはまさに「無為分別」「無我」ともいうべき状態で、人と人の間になにかが通じるという体験ではないだろうか。
 また、有名な一休宗純(いっきゅうそうじゅん=童話の「一休さん」でおなじみの)禅師にこんな話もある。一休禅師は一時大徳寺の管長を努めていたことがあるが、その大徳寺に何か揉(も)め事が起こったら、この遺言を読むようにと書置きを残した。そのような時にはまず、全山の僧侶がともに一週間の摂心(集中的な坐禅修行)を必ず行い、その後に遺言を開けるという条件を付けたらしい。案の定、大層な揉(も)め事が起こった。皆でその遺言を憶い出したが、開く前に前以っての摂心の開催が条件だったので、全山での摂心を厳修することにした。すると不思議なことに、直接的な話し合いは何もないのに、摂心が終わるころには緊張した空気もなくなり、あったはずの問題もなくなっていたというのである。念のために開けてみた遺言書は、白紙だったというオチがつく。史実ではないかも知れないが、これも深い禅定(ぜんじょう)における人間本来の親和力を示す物語のように思える。
 そんなことを思ったのは、折しもパリで同時テロが起こり、その対抗措置としてフランスが空爆を強化、更には米英露までが大同団結し、イスラム国への攻撃を激化させはじめたからである。
 無差別テロなど卑劣にして言語道断だが、しかし、これまですでに九〇〇〇回もの空爆が行われた。民間人の死者は何万人に及ぶのか。
 河合先生の事例に準(なぞら)えれば、学校に行かない高校生をいくら叱っても叩いても何の解決にもならないのに、そうし続けるようなものではないか。
 イスラム社会に限らず、我々は今、異質な「わたし」にあちこちで向き合っている。「わたし」を前提にしたお互いの欲望をぶつけ合っても、何も解決しないことは明らかだろう。
 今こそ世界は、東洋の叡智を共有すべき時ではないだろうか。
 この本では、「無分別」「無常」「無我」「無心」という仏教の智慧、また「無為自然(むいしぜん)」に象徴される老荘思想、そして「無限」では、秩序や必然が、いかに人間の自由に関わるのかを考察してみた。
いずれも人間そのものの、もっとも平和な在り方についての話である。日本で成熟した仏教や禅、老荘の考え方に、今だから触れてほしい。
 そして何より私が望むのは、これまでに長く蓄積して澱(よど)んだ思いを手放し、自ら何度でも「ないまま」に戻ってそのような自己を肯定し、しかも相手とも同じ「ないがまま」の状態で通じ合うこと。そのためには、高校生に向き合った河合先生の辛抱強さこそ重要になる。本当の平和とは、そのような無分別で「ないがまま」の状態でしかありえないのである。

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