<第83回輪読会報告>ないがままで生きる ・・玄侑宗久 ーその第2回ー

 【第1章 悟った人の世界はこんなに自由! 無分別】

「ないがまま」の発見

―― 古くからある「あるがまま派」と「ノウハウ派」 ――

 世の中の人生論は大きく「あるがまま派」と「ノウハウ派」に分けられる。あなたは素晴らしいんだからそれに気づくだけでいい、がんばらなくていい、というのが「あるがまま派」。一方、このテクニックや考え方を知るか知らぬかが大違い、知ったら努力してこの方法を学ぼうというのが「ノウハウ派」である。
 禅の初祖(しょそ)といわれる達磨(だるま)さんから数えて5人目の5祖弘忍大満禅師(ごそぐにんだいまんぜんじ)は、その後継者を決める際、弟子たちに、自分の現在の境涯(修行の深まりの度合い)を詩にして掲げるよう求めた。弟子の中でも最も優秀な弟子と目されていた神秀(じんしゅう)は、人間の心は鏡のように素晴らしい。しかし、塵(ちり)がつきやすいので日々払拭して綺麗にしなくてはならない、と貼り出した。それに対し、入門して半年ほどのあまり目を掛けられていなかった慧能(えのう)という弟子は、心というものは「本来無一物(ほんらいむいちぶつ)」なのだ。だからいったいどこに塵埃(じんあい)がつくというのか、と掲げた。弘忍禅師はその後継を実質的には慧能に与えた。
 この神秀と慧能は、それぞれ北と南、「北宗禅」と「南宗禅」に分かれてその禅の宗旨を広めるのだが、「北宗禅」のほうは次第に衰退してしまっている。このお話は禅の世界では大変有名なお話で、ある程度修行を重ねた人ならば必ず1度や2度聞くか目にしている。
 ここで玄侑宗久さんは、この二人の対比はそのまま上の「あるがまま派」と「ノウハウ派」の対比に重なっていくとおっしゃる。この「ノウハウ派」という言い方は誤解を招きかねないので注釈すると、彼らは、人間本来の太陽のごとき心の輝きは信じつつも、現実の心は雲に覆われ、迷い、苦しんでいるので日々精進努力すべきだと主張する。ただ、この精進努力には必ずや競い合いが生じ、さらにはそれに効率主義も加わる。それが、「ノウハウ派」という括りに通じる。
 一方、「あるがまま派」に通底する南宗禅の方は、「精進努力」は、人為的で、その目的意識によって心を汚す結果なりかねず、その修行は無駄ごとに見える。その象徴として宗久さんは、唐代の禅を代表する馬祖道一(ばそどういつ)とその師の南岳懐譲(なんがくえじょう)との遣り取りにを挙げる。師匠の南岳が、馬祖が熱心に坐禅の修行をしているのを見て、その脇で、皮肉たっぷりに敷瓦(しきがわら)を磨いてみせる。
馬祖「敷瓦を磨いてどうなさいます?」
南岳「ふむ、鏡にしようと思うてな」
馬祖「敷瓦を磨いたって鏡にはなりませんよ」
南岳「ならば、坐禅してどうして仏になれるのか?」
馬祖「……。では、どうすれば……?」
南岳「牛に車をひかせるようなもの。車が止まったら、車を叩くかな、それとも牛を叩くかな?」
この問答で馬祖は悟ったとされる。
 努力すればそれなりの結果が得られるのか、努力などせずに現状を肯定した方がいいのか、この二つは、実は中国の儒教と老荘思想(あるいは道教)にも深いところでつながっている。「至誠通天(しせいつうてん)」といって誠による精神を讃える前者に対し、後者は「無為自然(むいしぜん)」でとにかく自然に随順(ずいじゅん=おとなしく従うこと)すべきことを説く。
 いずれが正しいのかは判断しにくいが、それぞれに特徴的な心理的影響をもたらす。「あるがまま派」は怠慢に陥る可能性もあるが、とにかく自己肯定感が強いから明るく活発になりやすい。「ノウハウ派」(あるいは「精進努力派」)はうまくいけば一時的な肯定感はもてるものの、直ぐに目標を上方修正するので、常に「途中」にいる感覚を免れない。「真面目で立派だが、光がない」といった印象を持たれやすい。

―― 「ないがまま」は、「今」を出発点に置く呪文 ――

 禅の流れのなかでは、やがて両者を総合する考え方が出てくる。でもここで、玄侑宗久さんの話頭は、むしろ人生論の基盤としての「自己」の捉え方に向いている。宗久さんは、心を病み、ウツになる人があまりに多い今の日本では、精進努力の競争はむろん最悪だとしても、「あるがまま」という捉え方にもかなり問題があるのではないか、それ自体がむしろ病根になってはいないか、そう思った、とおっしゃる。そこに「ないがまま」という命題が出てくる。
 「あるがまま」ではその自己が肯定すべき自己なのか、その迷いがどんどん深まって自縄自縛になるのに対し、「ないがまま」ならもとより裸一貫、その場で新たに自己を立ち上げるしかない。常に「あらかじめの自己」のイメージを捨てたところから、まさしくその時その場の自己を立ち上げよう、ということになる。とにかく「ないがまま、ないがまま」と唱え、常に蓄積されない「今」を出発点に置くことを宗久さんは勧めるのである。

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