<第82回輪読会報告>ないがままで生きる ・・玄侑宗久 ーその第1回ーを受けて

 ―――― 〔はじめに〕「無分別」という平和 ―――― から想をえて

 冒頭で玄侑宗久さんがひかれておられる河合隼雄さんの講演録は、愛知学院大学で編纂された『仏教の智慧 禅の世界』という書物の中に収録されております。愛知学院大学では、毎年、外部の有識者の方を招いて校内で講演会を催され、その内容をこの本にまとめられて出版されております。因みに、玄侑宗久さんもご講演をされておられ、この本に掲載されております。
 私どもの市川静坐会でも、毎週、静坐をした後で催しております輪読会でこの本の中の一部を取り上げてました。お読みいただいております「市川静坐会のブログ」ではその内容をダイジェストにして掲載しておりますが、その中の「第50回」と「第51回」にこの河合隼雄さんの講演録も載せております。ご参考までに。
 
 この河合隼雄さんの講演のお話は、私も大変心に残っております。そして、愛知学院大学編の『仏教の智慧 禅の世界』を輪読会で取り挙げたときに、この河合隼雄さんの個所では、参加された皆さんからいろいろなご意見が出されました。
 河合隼雄さんの講演の題目は「開かれたアイデンティティー -仏教の役割を求めて-」というものでした。大変僭越ではありますが、玄侑宗久さんと同様に、私ども禅を修する者にとっては、まさに心惹かれる内容でした。ここに、その内容に付いての詳述を載せると長々しい文章になってしまいますので、そのお話の内容に付いてはどうぞこのブログの履歴を遡りまして、「第50回」及び「第51回」をご参考にしてくださいませ。
 河合隼雄さんに付きましては、いまさらご紹介するまでもないのですが、我が国における臨床心理学の第一人者であり、ユング心理学を日本に紹介するとともに、治療の中に「箱庭療法」を積極的に導入された方です。けれども、ご自身も申されておるように「私は本来禅にも仏教にも関係がない」方です。「ところが、その私が結局のところ、禅とか仏教ということを考えざるを得なくなってきたんです」とおしゃいます。
 ダイジェストとは言いながらつい長くなってしまいますことを何とかご容赦頂きまして、もう少し講演の内容をご紹介しますと、河合さんは、臨床心理の現場にもおられるのでいろいろな方のご相談を受けられます。玄侑宗久さんが挙げられた「不登校の高校生」もそんな一人です。そこで河合さんは申されます。「学校に行けない人が学校へ行くようになって、それで本当に成功なのか。盗みをした人が盗まなくなれば、それだけでいいのか。そんなことを考え始めると、分からなくなる時がある」。「詩人として有名な谷川俊太郎さん。学校へずっと行かなかったけれど、もしあの人が学校へ行っていたら、よくなかったかもしれない。谷川さんがわたしのところへ相談しに来ていたら、どうしただろうなと」。「私が臨床心理学の講義でよくベートーベンの例を出すんです」。(私の方で文章をやゝまとめます)「ベートーベンの生涯は、耳の病に限らず波乱に満ちていました。こんなベートーベンが普通に恋愛をして、結婚をして、ちゃんとした家に住んで、喧嘩もせず、平和な暮らしをするかわりに、全然音楽を作らなかったとしたら、それは成功だといえるでしょうか」。そこで河合さんは、「自分で自分のことを考えて、自分で判断して、責任がとれる人間を作れたらいいじゃないか」、「個の確立、つまり『これがわたしだ』という、心理学の分野で『自我の確立』と呼ぶものを目指していればいいのだと考え」たそうです。ところが、そうやっていくと「変なことが出てくる」。「職業もちゃんと持っていて家庭も地位も金も何でもある。でも、どうしようもないという人が出て」くるのだそうで、「全部手に入ると、何のために生きているのかわからなくなってしまう」のです。河合さんが研究された心理学者のユングも、「自分のところへ来た人の三分一は何の問題もない人だったと」。そこでユングも「『自我の確立は話の始まりに過ぎない。その次が問題ではないか』と考え始めました。つまり、『私はこうするんだ、こうやるんだ』と言っているのは人生の半分にすぎない。あと半分は、そういう自我がどう死んでいき、どのように自分というものを知るのかということだ。そして、その人生の後半こそが大事だ」と言い出したのではないだろうか。そして、ユングは面白いことを言っているそうで、「そのような自己のことなら、東洋人の方がはるかによく知っている。東洋人はそれを昔から知り過ぎているので、自我を確立せずに、心の豊かさと物質的貧困の中に生きている。反対に、西洋人は物質的な豊かさの中で自己を知らずに生きている。だから、西洋人はもっと東洋に学ぶべきだ」と。
 で、ここで終わってしまっては東洋人の自己満足になってしまいますが、そんなはずはありません。ここで河合さんは「日本人はあまりにも個の確立がなさすぎる。なあなあと、いいかげんにするのがうますぎる」とおっしゃいます。そして、「個の確立」の必要性を強く打ち出しておられます。河合さんは、ノンフィクション作家の柳田邦夫さんの『この国の失敗の本質』という本を紹介されております。この本を通して「個の確立していない日本人のマイナス面がよくわかります」とおっしゃいます。「(歴史的に)日本人はどれだけ失敗を繰り返してきたのか」。「(第二次世界大戦で)この戦争を始めた時に、誰が開戦を決意したのか、誰のもとに責任があったかがわからない。だから、負けた後でだれも責任を取らなかった」。「(戦後)五十年もたったら、日本は再び経済的な大国になりました(が)、その後でバブル経済が崩壊して、またしてもガタンと落ちた」。「要するに、個人としてはっきり決断し、責任を取るということを、日本の指導者たちは行っていない。みんながそれをごまかしている」。「柳田さんの結論は、日本国民は失敗から何も学ばないというDNAを持っているのではないかということです」。河合さんは「この失敗を二度としないようにしよう」とおっしゃいます。
 ここから、このご講演の終局部分に入っていくのですが、さすがにそれは省きましょう。河合さんのこのご講演は、現代に生きる私どものその〝日本人性〟とでもいうものと、それを具有しつつその将来に向けて〝どう生きていくべきか〟という問題について、非常に含蓄にあふれた提言をされておられますので、思わず、蛇足を連ねてしまいましたが、それに執着すると玄侑宗久さんがこのご本の中でおっしゃりたいことから次第に離反することになりそうです。
 玄侑宗久さんが、ここで河合隼雄さんのご講演の一部をひかれておられるには、本書のメインテーマである「ないままに生きる」ということに結実せんがためでありましょう。そこに〝生きる〟ためには、仏教の基本理念である「無為分別」「無我」というものが重要なファクターだとおっしゃいます。これだけ多くの異質な精神要素をもった地球上の人々がこの地球上で和合していくためには、この理念が不可欠だ、とおしゃるのでしょう。

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