<第84回輪読会報告>玄侑宗久・鈴木秀子対談『仏教・キリスト教 死に方・生き方』 ーその第1回ー

 今回からは、輪読会で採り上げた新しい本のご紹介です。
 本の表題は『仏教・キリスト教 死に方・生き方』で、僧侶で作家の玄侑宗久さんと、日本近代文学研究者で修道女(シスター)でもあられる鈴木秀子さんとのお二人の対談集です。
 この本を選ぶにあたっては特段の理由があったわけではありませんが、私どもの静坐会には、キリスト教をはじめ他の宗教にご興味を持たれる方もおられるようですので、仏教の一派である禅宗に基いた坐禅をやっている私共ですが、人が生きていく上での根本命題ともいえる生と死について、この本を通してお二人のお立場からいろいろなアプローチをされていて、私どもの視野を広げて頂くよすがになりました。加えてお二人は、仏教とキリスト教の「違い」に触れることよりもむしろ、その「共通するところ」にお話し合いの道筋を付けておられたところが、私どもがこの本を通読する上でのモチベーションになりました。
 その点を玄侑宗久さんは「まえがき」で強調されておられました。今回は初回ですので、まずはその宗久さんの書かれた「まえがき」のご紹介からしていきたいと思います。

 その前に、もう既に皆さんよくご存じのお二人でしょうが、改めまして、このお二人のご紹介を簡単にしておきたいと思います。
  玄侑宗久さん――1956年、福島県の生まれ。慶應義塾大学中国文学科を卒業後、
         様々な職業に就かれたのち、27歳で出家。臨済宗妙心寺派、
         福聚寺の副住職。「陰の花」で第125回芥川賞を受賞。小説
         以外にも仏教、坐禅に関する著作多数。
  鈴木秀子さん――1932年生まれ。聖心女子大学卒後、東京大学大学院人文科学
         研究科博士課程修了。フランス、イタリアに留学。ハワイ大学、
         スタンフォード大学で教鞭をとる。聖心女子大学教授(日本近代
         文学)を経て、国際コミュニオン学会名誉会長。聖心女子大学
         キリスト教文化研究所研究員・聖心会会員。日本にはじめて
         エニアグラムを紹介。
         全国および海外からの招聘、要望に応えて、「人生の意味」を
         聴衆とともに考える講演会、ワークショップで、さまざまな指導
         に当たっている。

【水脈――まえがきにかえて】   玄侑宗久

 私のキリスト教体験は、幼稚園で始まった。カトリック系の幼稚園だったのだ。トイレで失敗をしたときにズボンを貸してくれた絹子先生や、ケガの手当てをしてくださった桃子先生の優しい笑顔を憶(おも)い出されるが、別にキリスト教の教義みたいなものは憶いださない。
 イエスという人が気になり始めたのは、高校生のときだったろうか。ヘルマン・ヘッセ、ジッドなどを読み、モルモン教会や統一教会にも通い、「ものみの塔」に通い、ギリシャ語訳聖書も読んだ。こういう無節操な触れ方をしたが、これまで私は、まるで聖書にもいろんな矛盾する予言があるように、世の中にはいろんなキリスト教があるものだと、ごく自然に思っていた。だからキリスト教全体について、まとまった賞賛も批判もなかった。
 その後、禅を体験するようになり、やはり宗教というのは人の数だけある。問題なのは教義ではなく、人なのだと思うようになった。(禅宗だって)白隠さんと一休さんと盤珪(ばんけい=(盤珪永琢)やさしい言葉で大名から庶民にいたるまで広く法を説いた)さんが同じ宗派だなんてとても思えない。
 鈴木先生とお会いし、私はこの思いを深めた。私は一人のキリスト者とお会いしたのではなく、あくまでもさまざまなご縁の中にある鈴木秀子さんという方にお会いしたのである。私は、先生と対面しながら、おそらくキリスト教の最も上質な部分に触れていたのだと思う。
 言葉は常にマックス・ピカート(1888~1965―ドイツ生まれ、スイスの医師、哲学・思想面での著述活動)の云う「沈黙の力」の中から綴(つづ)られた。先生には、教義を押しつける気などさらさらなく、こちらの話もよく聞いていただける。ほとんど禅的、といっていいほど、我々は充足した「今」を過ごし続けた、と私は思う。驚きも喜びも共感も、常に「今」にあった。
 そう思うのは、やはり宗教は人なのだ、ということだ。私は「優しくて強い」とか、あるいは「清く正しく美しく」という夢のような在り方が、目の前に体現されていることに感動してしまったのである。
 先生はしかも文学者、鈴木先生においてこれほどに宗教と人生が融合しているのは、文学のせいではないかとも思う。経典も聖書も、文学として読むことは可能だし、いや、何より人は、言葉でものを考える。その、言葉にできる瀬戸際を求める姿勢にこそ、文学も宗教も宿るのではないだろうか。
 私は、自分の作品の中で必ずしもキリスト教を讃(たた)えた書き方をしているとは限らない。しかしたぶん、鈴木先生にとってそんなことはどうでもいいのではなかろうか。宗派は関係ない。宗教の区別も関係ない。問題なのは、おそらくそういう「よすが」を生みだしつつ人間が生きるということ。
 先生のキリスト教は、いわゆる赤毛ものではなく、日本人としての先生の体や生活にすっかり沁(し)みとおっている。きっと「よすが」も「ご縁」も「お蔭さま」も、いやいや「仏様」だって、おそらく先生は柔らかく語ってしまうだろう。神仏は概念としてではなく、たぶん鈴木先生の生活の実感のなかで生きているのだ。本当に生きる、ということは、おそらく概念を離れることだ。そしてそうなると、神でも仏でもよくなってしまう。そのことを、これほど実感した機会はなかった。本当にありがたい機会をいただいたと思う。
 宗教を選ぶ、みたいな本も世間にはあるが、本書はけっしてそういう本ではない。一言でいえば、キリスト教であれ仏教であれ、我々が、いや、少なくとも私が対談中に感じていた「安らぎ」と「敬愛」とが、宗教を超えて読者に届けば本望である。
 最後にもう一言、どんな宗教も、深く掘り進むと同じ水脈に通じるという昔からの思いが、今回確信になった。鈴木先生には心から感謝申し上げたい。
  ※ マックス・ピカート『沈黙の力』より―――沈黙は言葉の放棄と同一のものでは
    ない。沈黙は決して、言葉が消失したあとに取り残されたような、見すぼら
    しいものではない。沈黙は或る種の全きもの、自己自身によって存立する或る
    ものなのである。沈黙は言葉とおなじく産出力を有し、言葉とおなじく人間
    を形成する。ただ、その程度が違うだけである。沈黙は人間の根本構造をなす
    ものの一つなのだ。(中略)
    読者はこの本によって、言葉を軽視するような誤った結果にたち到っては
    ならない。人間が人間として存在し得るのは、言葉によるのであって、沈黙
    によるのではないのである」。
    「もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうであろう」。

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