<第85回輪読会報告>玄侑宗久・鈴木秀子対談『仏教・キリスト教 死に方・生き方』 ーその第2回ー

【第1章 死にゆく人のためにできること】
※ 今回は「第1章」の1回目です。

―― 医師ほど挫折に満ちた人生はない ――

玄侑宗久(以下、玄侑) 「死に方、生き方」というテーマはむずかしいですね。鈴木先生、先に何かアドバイスしてください。
鈴木秀子(以下、鈴木) 私は医師会などで講演するときのテーマは、「亡くなっていく人のために何ができるか」というのが多いですね。もう医学の限界を超え、自分には何もできない、医者は患者にどう対応したらいいのか。そう考えるお医者さんも多いようです。
玄侑 昔、日本は告知派だったんですよね。最初は大日如来(だいにちにょらい)や薬師如来(やくしにょらい)にご祈祷するとか、陰陽師(おんみょうじ)を呼んでくるとか、それが治療行為。だけど、ある段階から阿弥陀(あみだ)さまのもとにゆだねるという転換がありました。
鈴木 薬師如来は医療や薬をつかさどる仏さまで、阿弥陀如来は死後の世界、極楽世界をつかさどる仏さまですね。
玄侑 平安時代あたりでは、主に貴族が、もう死ぬんだと自覚した人は、黒い衣装に着替えて涅槃(ねはん)堂という建物に入る。そこには阿弥陀さまが祀(まつ)ってあって、阿弥陀経などの唱えて亡くなっていく。病人は声が細く出にくくなるから、友達も一緒に南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱える。
鈴木 それこそ、ホスピスじゃないですか。
玄侑 ええ。それが本来の枕経(まくらぎょう)です。だから、お坊さんというのは人が亡くなるまで傍らにいて、亡くなると帰っちゃったんです。その後は、葬送人がやります。
鈴木 昔のお坊さんはお葬式をやらなかったのですね。
玄侑 葬儀をし始めたのは鎌倉時代、一般化するのは室町時代で、その頃は穏やかに送り出すお手伝いだけですね。だけど今の医学は最後まで薬師如来の世界で、何とか治そうとする。ぎりぎりまでそうやって病気と闘おうというのは、ちょっと残念な部分だと思います。
鈴木 お医者さんにとっては今を「生かす」ことがいちばんの目的になっていますね。
玄侑 鈴木先生はホスピスなどで、もう長い間、死にゆく人たちの話し相手をやっておられる。
鈴木 そう、やっぱり生かすことだけ、病気を治すことだけが目的にしていいのかどうか・・・。
もうずいぶん前のことですが、北海道の知人からこんな話を聞きました。彼女の五十六歳のご主人が、会社で心筋梗塞で倒れ病院へ運ばれた。彼女も病院へかけつけれど、ICU(集中治療室)に入っているから面会できないという。福岡、仙台、東京に住んでいる娘さんたちも集まってきたが、どうしても会わせてもらえない。お父さん本人の意識ははっきりしているのに。「何かあったら連絡します」の一点張りで。そのまま一週間が過ぎ、娘さんたちもそれぞれ家庭があるから家へ帰ります。夜中に突然。病院から電話が入ったんです。「三十分前にご主人がなくなりました」って。入院して九日目のことです。彼女言ってましたよ。「九日間、生きるかわりに、たとえ一日でもいいから家族で夫を囲んで話がしたかった」と。
玄侑 よくわかります。
鈴木 もちろんお医者さんたちも、何とか生かそう、病気を治そうと、だけどできなかった。そういう面では、医師ほど挫折に満ちた人生はないと思うんです。かならず失敗に出逢(であ)う。ある限界まできたら無力だといちばん知っている。限界が見えてきて、無駄とわかりながら注射したりして、そこを見るまい、見るまいとしているのが現状だと思います。

―― 心のなかの「番頭さん」がわめく ――

玄侑 いま、私のところに、そういうことで気に病んいる外科のお医者さんからメールの相談がきます。22歳の女性が手術の合併症で亡くなってしまった、32歳の女性が植物状態になってしまった、そういうことが頭から離れないようなんです。
鈴木 治らないと自分の失敗という責任を強く感じるのでしょう。でも、人間はからなず死ぬんですから。
玄侑 勝負はいい加減にやめないと・・・。
鈴木 人間って、失敗や挫折を体験すると「あのとき、ああしておけばよかった、こうしておけばよかった」と自分を責める。あたかも自分が全能であるかのように。「あれもできたのに、これもできたのに」という落とし穴に放り込まれていく。何かよくないことがあると、その事実からあれこれ憶測したり、想像したりが始まって、反応が起こってくるのでは。言ってみれば、京都で何代も続いている老舗(しにせ)の番頭さんのようなものなんですね。
玄侑 番頭さんですか。・・・その心は?
鈴木 若旦那が何か失敗すると、三代前からお仕えしていた番頭さんが、「先代はこうしましたよ」とか「京都のしきたりではああすべきでした」とか、いろいろ口やかましく言う。その番頭さんの要求がどんどん高くなって、若旦那の自責の念を駆り立ててしまう。 
 そういう声が自分のなかからも聞こえてくるんです。たとえば病気になったとき、お医者さんから「腫瘍があります」といわれると、心のなかの番頭が「だから言わないことじゃない。タバコはやめろと言ったのに、酒は飲むなといったのに」とか、「ガンになるぞ」とか、「老舗もこれでおしまいだ。家族が路頭に迷うことになる」とか、いろんなことを言い出すじゃありませんか?
玄侑 事実にくっついて、事実そのものを巨大化していくということですね。
鈴木 そうです、想像と憶測が。病気だけではなく、普段の生活でも、何かがうまくいかないと同じことが起こってくる。
玄侑 愛する人を送り出す家族の心にも、自分ではどうしようもないのにあれこれ考えて自分を責めさいなむ。
鈴木 その家族も、それが自分の決めつけをわめく番頭さんの声だと気づき、そこで考えることをストップすれば、ずっと心が穏やかになるですけど。
玄侑 だけど、亡くなっていく本人のほうは、ほぼ自動的にというか、あるときさっと番頭さんがいなくなるようですね。
鈴木 そうですね。番頭さんの声も静まって、死ぬ準備ができてくる。

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