<第85回輪読会報告>玄侑宗久・鈴木秀子対談『仏教・キリスト教 死に方・生き方』 ーその第2回ーを受けて

【第1章 死にゆく人のためにできること】(その1回目)
―― 医師ほど挫折に満ちた人生はない ―― から想を受けて

 「死に方、生き方」というテーマは、玄侑宗久さんのおっしゃる通り非常にむずかしい問題でありまして、私のような高齢のものには結構日常的なテーマといえるのですが、若い人たちにしてみれば、縁遠い、あまり切実感のない問題かもしれません。というよりも「考えてもしょうがない」、「縁起が悪い」などと言って普段は忌避している問題であり、それが習慣化して、日常の会話にほとんど昇ることはない問題でしょう。
 ところがこの問題を、誰にも必ず起こり、そして平等に起こり得る、「誕生と死」があって初めてその間の〝生〟がその人の存在を定義づける根源的な問題として、要は、生・老・病と共に避けることなく真正面から向き合ったのが、釈迦(仏様)その人でした。
 そして、そのような苦悩を伴う問題の解決の糸口を己の中に見つけようと、我が身を苛み、艱難辛苦の修行を重ねて、その挙句にはそのような修行方法を超脱し、自らを修めた次元で覚醒して(悟って)見付けたのが仏法というもので、それは今から2500年前の調度この臘月(12月)でした。
 一方、鈴木秀子さんは、クリスト者としてこの問題に日常的に取り組まれ、聖職者のチャプレンとして多くの「看取り」に立ち会われておられます。すなわち、当然ですがこの「どう死を迎えるか」という問題は、宗教の如何を問わず「取り組まなくてはならない問題」と言えます。
 最近、日本でも〝ホスピス〟という言葉は、もう日常用語化しています。しかしながら、現状ではそのような「場」に最先端で臨場している人たち、在宅医療を積極的になさる医師の方だったり、見取り介護をする老人ホームの介護の人たちであったり、それを医療行為として取り入れている病院であったり、いわゆる「見取り士」と呼ばれる人だったり、それらの人たちの現状はまだ模索が続いていると言われています。情報がグローバルにそして短時間に行きかっている中で、この日本の状態は「遅れている」という捉え方をせざるを得ません。
 それは、ほんのつい最近まで我が国では、ガンに限らず「死にいたる病」での本人への告知というものが隠秘されていた、という事実からも、上でも書きましたが我が国では〝死〟というものは避けて通るべきもの、忌み嫌われるもの、として日本人の中に長く定着していたからかもしれません。それについては、玄侑宗久さんの他の著書でも書かれておられます。
 それに引き換え、鈴木秀子さんは、海外でのそのような場面での先進的(これは国民性の違いでもありますので、「先進的」という言葉が妥当するかは議論のある処でしょうが)な取り組みの現場に多く立ち会い、ご自身の経験をも踏まえて、我が国におけるこの分野での指導的な役割を積極的にになっておられます。
 本章の中の鈴木秀子さんの北海道のご友人の方のお話は、非常に考えさせられます。医療技術の進歩は、終末医療の現場でも大いに発揮されるところでありしょう。ところが、ある程度「意志」をもったご本人の心の問題、そしてそれに立ち会われる遺族の人たちの心の問題、それらは決して技術的に対処して解決できる問題ではないでしょう。今盛んに言われている「尊厳死」の問題にしても、自分の「死」をどのように迎えるか、老若男女を問わず、頭の片隅に置いておいていい問題でありましょう。私のような老人向けに、「今後どう生きるかは、どう死を向かえを迎えるかの問題である」というような言われ方をします。
 本書では、このことについて玄侑宗久さんと鈴木秀子さんは、それぞれのご経験と、それぞれの宗教的知見を交え、示唆に富んだお話が展開されていきます。

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