4月 25日 松原泰道著 『公案夜話』-第14回〔平常是道〕

 ――― 平常是道(びょうじょうぜどう)—日々の生活の中にある禅 ―――

 この公案は、『無門関』という有名な禅書に出てくる弟子とその師匠との問答で、前回(第13回)までは弟子の質問に答える師匠の側であった趙州和尚の、今回はまだ若い修業時代のことです。その趙州禅師の師匠は南泉(なんせん)和尚です。
 以下に、やや難解ですが原文を和訳したものをご参考までに載せます。
 
 南泉、因(ちなみ)に趙州(じょうしゅう)問う、如何(いか)なるか是(こ)れ道(どう)。泉(=南泉和尚のことです)云(いわ) く、平常(びょうじょう)心(しん)是れ道。州(=趙州禅師のことです)云く、還(かえ)って趣向(しゅこう)すべきや否や。泉 云く、向かわんと擬(ぎ)すれば即ち乖(そむ)く。州云く、擬せざれば争(いか)でか是れ道なることを知らん。泉云く、道は知 にも属せず、不知にも属せず、知は是れ妄(もう)覚(かく)、不知は是れ無記(むき)。若(も)し真に不疑(ふぎ)の道に達せば、 猶(な)お太虚(たいこ)の廓(かく)然(ねん)として洞豁(とうかつ) なるが如し。豈(あ)に強(し)いて是非すべけんや。州、言 下(ごんか)に頓悟(とんご)す。(『無門関』十九)
 
 これを分かり易く意訳すると、
 趙州「道とは何でしょうか」
 南泉「平常の心が道だ」
 趙州「(その道を)どのように歩く(修行する)べきなのでしょうか」
 南泉「歩こう(修行しよう)とすると道からズレてしまうだろう」
 趙州「しかし、歩こう(修行しよう)としなくて、どうして道を歩く(修行する)ことができますか」

 これに対する南泉和尚の答えを、松原泰道さんは分かり易く訳しています。
 「道は、歩く・歩かないという心の有無によって、有ったり無かったりするものではない。また、知識があれば道がわかるというものでもない。知識はとかくものごとを相対的に二分して考えるためにかたよった知識に陥りやすい。といって知識がなくてはまた何もわからない。よって知にも不知にもかかずらわない、つまり、無心そのものになって日常の起居動作に励むなら、しぜんに体得できるのが道である。ちょうど澄みわたった大空のように、明白で説明の余地などあるまい」
 これで、それまで趙州禅師は恐らく「道とは難解にして深淵なもの」と決めつけ、それを極めようともがいていたに違いありません。ところが、この南泉和尚の答えでその辺がいっぺんに氷解したそうです。この「平常是道」でのやり取りについては、この松原泰道さんの説明で尽きてしまうのですが、これをもう少し肉付けして、松原泰道さんの文章を借りて、私どもの日常に即して述べてみます。
 「南泉は『平常心は、日常の起居動作や行住坐臥に真実の道がある』といいますが、換言すると『生活のすべてが、みな仏道に合っている、仏道と一つになっている』ということでしょう」。
 で、この平常とは「生活のすべて」ということであり、それをもっと掘り進めれば「あるがままに・そのままにということになりましょう。といっても、感情や本能まる出しの意味ではないことは明らかです。ではありのままとは、どのようなままなのでしょう。あるがままに・そのままにとは『自然(じぜん)のままに』ということです。平常心とは、そこで自然(じぜん)のままの心といいかえられます」ということです。
 私どもの日常生活のすべてが、仏道に叶っている、ということです。即ち、その日常生活を仏道に即して行う、それも一々そのことを意識するのでなく〝自然〟に行うことにより、私どもは、日ごろ求めて止まない〝平常心〟をここで獲得することができるのです。

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