<第37回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

―― 〔その7〕本当の仏教とは? ――   ネルケ無方

ネルケ無方さんが、この本の中で必ず引用する道元禅師の『正方法眼蔵』の中の「出家功徳」の巻の中で、道元禅師が釈尊の言葉、として引用している言葉が以下の文章です。
 「我れ父母・兄弟・祭祀・眷属(けんぞく)・知識を捨てて、出家修道す。正に是れ諸(もろもろ)の善覚を修集すべき時なり・・・善覚とな、一切衆生を憐愍(れんみん)すること、猶(な)ほ赤子(しゃくし)の如(ごと)し。」(ネルケ無方さんの訳では「私は父母を、兄弟を、妻子を家来を、そしてよき友をも捨てて、出家の道を選んだ。そして善覚すなわち仏・菩薩としての自覚を得たのである。・・・仏・菩薩の自覚(善覚)というのは、生きとし生けるものをわが赤子のように愛することである」)。
 現状の日本の多くの僧侶が妻帯しています。ネルケ無方さんご自身も、奥様がおられ、お子様も3人おられるそうです。そして、「釈尊は結婚していて、子供もいましたが、出家して宮殿をあとにしました。それはもっぱら道を求めるためでした。仏教のスタートラインがここにあります」といわれた後ネルケ無方さんは、「釈尊は決して家族・親族から逃避していたとは言えません。釈尊にとっては、家族・親族と『一切衆生』は別物ではなかったはずです」とおっしゃられておられます。そして、「(私は)出家しなければよかった、いや、結婚しなければよかったのでしょうか? 私はそうではないと思います。出家とは言えない、かと言って在家とも違う私の生き方にはプラス面もあると思う」とおっしゃいます。
 そして、「子供を持つという事実は一生続くということです。寝ていても覚めていても、親は親です。結婚を決意し、子供を持てば、この責任から逃れたくても逃れられません。離婚しても、親は親であり、親としての責任があります。出家しても、親は親であり、子は子です」と続きます。更に、「子供に対する親の責任と、一切衆生に対する菩薩の責任を比較すると、比べものにならないくらい親の責任は軽いように見えるかもしれませんが、実はその逆です。『一切衆生をわが子のように愛そう』という大きな菩薩心をいっぺん起こしても、そのうち気がつけば、『一切衆生』のことなんか全然考えていないということがよくありますが、親ならそうはいきません。子供は『一切衆生』というような概念と違い、目の前にいるのですから」とおっしゃられる。
 これには、必ずしも筆者(私)は賛同しかねます。事の次元を異にした議論の方向だと思います。私は、例えば「妻帯したお坊さんがいけない」などとは決して思いません。日本のお寺には、家族をお持たれ、お寺の敷地内に住まわれてゆたかな家庭を持たれておられるご住職をたくさんおられることを知っております。親御さんが、社会的にも崇高な目的のお仕事をされ、それを全うされているそのご家庭の実に円満なことか。
 人が結婚をし、家庭を築き、人の子の親となった時、我が身を顧みて、子に対する愛情は殆ど動物的であり意識の外にあります。けれども時として、意識の俎上で義務感を伴うことも、現実の生活の中では稀ではないと思うのです。
 しかし、このような世情でのことと、釈尊の「一切衆生を憐愍(れんみん)」とは、やはり次元が違うように思うのです。もしこの文章をネルケ無方さんがお読みになられたら「せっかく議論をここまで煮詰めてきたのにそれを〝初期化してしまう〟のか」と怒られるかもしれません。そして、「『一切衆生を憐愍』の発露は、自らの家族への愛情にその端を発する、ともいえる」といわれるかも知れません。・・・けれども、然は然りながら、どうしても釈然としないのです。平板にして観念的、の誹りを受けるかもしれませんが、禅宗界に限らず、「衆生済度」をその生涯の目的として生きておられた、あるいは生きておられる方々を、ネルケ無方さんはどう見られておられるのか、と私は食い下がりたいのですが。如何でしょうか。

 
 

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