―― 〔その16〕自分のためでも、人のためでもない ―― ネルケ無方
無上菩提(むじょうぼだい)は、自の為(ため)に非(あら)ず、他の為に非ず、名の為に非ず、利の為に非ず。然而(しこうして)、一向に無上菩薩を専求して精進不退なる、是れを発菩提心と名づく。
これは、道元禅師の二大書ともいえる『永平広録(えいへいこうろく)』に書かれている言葉です。二大書のもう一つは言うまでもなく『正法眼蔵』です。『正法眼蔵』の方は、一般の方でも読まれておる方もおられるようですが、『永平広録』のほうは、専門家の方でもなかなか難解で、一般の方にはほとんど知られておらないようです。
ここでネルケ無方さんは、修行者同士で「仏性」についてあれこれ議論を交わしても、その実践が伴わなくては意味がない、と言います。≪この一瞬一瞬で実践がともなっていなければ何の意味も持ちません≫。
この「実践」については、「上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げかしゅじょう)」ということばで言い表すことができるそうです。これをネルケ無方さんは≪菩提、つまり道を上に求め、それを自分を含む一切のものに行きわたらせる≫と解釈されています。図式的に表すと、修行の初段階では、
凡夫 ⇒ 菩薩 ⇒ 仏
となるのが普通だそうです。ところが、この「上求菩提・下化衆生」に主眼を置き、その双方を見据えて実践を行うには、
仏 ⇐ 菩薩 ⇒ 凡夫
≪というような、一方通行では済まされることのできない働きです。今、ここで現に実践している自分を上の「仏」にも下の「凡夫」にも、両方に開いておくということだと思います。上の「仏」も下の「凡夫」も言うまでもなく、自分自身のことにほかなりません≫ということです。これは≪精神分析の父フロイトが提唱した「自我・エス・超自分」という心的構造論とどこか似ていなくもないと思います≫とのこと。
ここでネルケ無方さんは、初めて、冒頭の道元禅師の『永平広録』の言葉を翻訳します。
≪仏教でいう『無上菩提』すなわち、この上ない智慧は、自分の為にも、人の為にも、何の役にも立たない。ましてや名誉や利益のためにはならない。それでも愚直に、『無上菩提』を求め続けること、それこそ発菩提心の姿なのだ≫。
これはまさに「上求菩提」の方向性です。≪大事なのは、自分の利益のためでもなければ、人のためでもないということです。ましてや名利のために菩提を求めてしまえば、それこそ菩提とは正反対の我執になってしまいます≫。自分が修行して到ろうとしている「菩提心」(それを求めることを「発菩提心」といいます)を、自家薬籠中に収めてしまっていては何にもなりません。