<第48回>ドイツ人住職が伝える 禅の教え 生きるヒント- ネルケ無方

―― 〔その18〕百千万発する私の願い ――   ネルケ無方

  今回の章は、ほぼ、ネルケ無方さんが住職をつとめる「安泰寺」の紹介のような内容です。ですので、できるだけネルケ無方さんの文章をそのままお借りして、ご紹介したいと思います。初めに、ほとんど慣例に従って・・・、道元禅師の文章を載せています。

 一発菩提心を百千万発するなり……。
 一億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり。
  (『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』・「発無上心(はつむじょうしん)」の巻より)
 
 ≪今から始まる旅の第一歩を踏み出そう。この一歩を百千万歩続け、やがて千億人の歩みに通ずることを願いながら・・・≫。≪この世が地上の楽園に変わるということは、恐らく永遠にないと思います。少なくとも、私自身が生きている間には実現しないと確信しています。しかし、もう少しましな世の中に変わるように努力することは、各個人にはできることですし、私自身もそれはしたいと思います≫。≪凡夫の自分が凡夫を自覚しながら、多くの参禅者と一緒に仏を目指し、菩薩の実践をしようとしています。安泰寺はそういう場所です≫。
 ≪実際に寺にやってくるのはさまざまな人です。若い層では、「言うことを聞かない」という理由で親から預けられてきた中学生から、自転車をこいで家出してきた高校生、入学試験にすべった浪人、大学は卒業したものの就職できそうにないプー太郎、インドあたりで安泰寺の噂を聞いてきた精神世界系のトラベラーや、都会生活に疲れて大自然の中でノンビリしたいという人までさまざまです。彼らの多くに共通しているのが「自分探し」です。ありもしない「自分」を、安泰寺に行けば見つけられるのでは、というのです。もう少し上の年代になると、修行の動機はやや現実的になります。「坊さん」という安定した職業に憧れている者も少なくありません。あとはリストラされたおっちゃん、駆け込み寺を求める主婦、異性を求めるオールドミス、出所者や精神的な病のある人、老人など「もう帰ってこなくていい」といわれている人が多いのです。仏道修行がしたいというよりも、「ほかに行く場所がない」というのが彼らの本音でしょう≫。
 ≪日本人の参禅者と外国人の参禅者で大きな温度差を感じているもの、そこです。はるばる外国から海を越えて山を越えて、わざわざ安泰寺へ来る人なら、何をしに来るかを考えてから来るのです。準備もある程度してきます。欧米人なら、キリスト教の修道院というオプションもあったはずです。同じ仏教でも、南方仏教、チベット仏教や中国仏教もあるのに、あえて日本の禅を選んだのには、それなりの理想を持ってくるのも外国人です。わざわざ高いお金を払って飛行機に乗り、取得しにくい日本のビザを取得してくるのですから、彼らの頭の中にある安泰寺は理想郷そのものです。ですから、現実の安泰寺を見たとたんショックを受けて、すぐ投げ出してしまう人もいます≫。
 ≪「お寺にでも行って来たら」と周りから迷惑がられ、自分の意志で仏道を目指しているのではなくて、何をしに安泰寺に行くのかもよくわからないままでやってくる人も、菩薩の実践の対象となるのは確かです。いやむしろ、他のいく場所のない人こそ菩薩の救いを必要そしているのです≫。≪しかし、です。安泰寺に来ている人は、菩薩の実践の対象になるだけでは困ります。対象だけではなく、実践の主体にもなってもらわなければなりません。私もあなたも、ともに菩薩の実践をしなければなりません。もっと言えば、菩薩の実践において、主体と対象はそもそも分けられないのです。救いを求めている凡夫自身が、菩薩の実践をしない限り、いつまでたっても救われないからです。救われるためにはまず、「救われたい、救われたい」という思いを手放し、人のために自分に何ができるかを考える必要があります≫。
 今回のこの章ではつくづく考えさせられました。私たちは「居士禅(こじぜん=一般人で禅の修行を志す人、あるいはそのスタイルをこう呼びます。「在家禅」という言い方もあります)」の集いです。居士禅者というのは、まさに一般社会(俗語で「娑婆(しゃば)」といういい方があります)と修行の世界(別に特別な世間離れをした〝別世界〟であっては決していけないのですが)とを絶えず行ったり来たりしている人達です。ですので、上に書かれている「安泰寺にやってくる人達」、むしろそういう人達〝ばかり〟と言っても過言ではありません、筆者を含めてですが。そして、修行道場を一歩出れば、そこは「娑婆の世界」です。というよりも、そこが「主な生活の場」なのです。そうした環境の中で私達居士禅者は、ネルケ無方さんの言われる「菩薩の実践」なるものがちゃんとできているのか! そのことを絶えず問われているし自分自身に問わなければならないのです。そういう意味では、我田引水かも知れませんが、出家した雲水の方々よりも〝過酷な修行環境〟にあるともいえなくはないでしょう。そうした中で、私達は、「娑婆の世界とを絶えず行ったり来たり」しながら、「菩提心を維持できているかどうか」それよりも「修行道場へ足を向けたときの初心を貫徹できているかどうか」、いつもそのことを心の中で反芻しながら、修行をし続けなければならないと思うのです。

 

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