<第51回>仏教の知恵 禅の世界 〔開かれたアイデンティティー (後半)〕―河合隼雄

―― 〔その1の2〕開かれたアイデンティティー (仏教の役割を求めて)<後半> ――

河合隼雄さんの「開かれたアイデンティティー」の後半です。いよいよ佳境に入り、内容もより専門的、そしてやや難解なものになってきています。けれども「人間の心理」という人類全体の共通の要素、それを深く掘り下げ、仏教的、且つ禅的なアプローチをしておられ、私どもが日々やっている坐禅というものが人間の心理とどのように関わっているかを改めて考えてみる、非常に刺激的、更には感動的な内容となっております。「後半」は、ほぼ河合隼雄さんの文章の丸写しになって長文になってしまいまして恐縮ですが、とてもダイジェストにできるようなスキはないようなお話でした。

 ≪これからはグローバリゼーションの時代だと言われています。でも、グローバリゼーションというのは、世界が一様になることではなく。世界がしっかりつながっていることなんです。ところが、そのつながる方法が、日本とアメリカとではまったく違っている。
 岐阜で行われたシンポジウムの席上で、前の駐米大使の小和田恒さんがこんなことをお話されていました。アメリカ人との会議を行うときには、英語でパーッと議論をして結論を出す。ところが、その結果を日本へ持ち帰って外務省で報告する時には、人間が変わっていなければならない。英語の考え方のままで話したところで、誰も聞いてくれない。英語で決めたことを、日本的に言い換えなければいけない。
 二十一世紀日本の構想懇談会の時に、会議室へいちばん最後に入ってきた総理大臣が「いや、皆さん、すみません」と言われたんです。こうやって「すみません」ということで、自分というものをスッと消して、そこからまわりとのつながりが始まります。≫
 ≪もう一つ例で、英語では“I am“とか‟I think“とか、主語になるものはすべて〝I〟です。それに比べて、日本語では「私」とか「僕」とか「俺」とか、周りの状況によって主語を変えますよね。立っている場を感知して、その場の中で私というものをスッと出してこなければならないんです。私が今なにげなく話している言葉を通して、皆さんが私がこの場をどう考えているのかということを感得されるわけです。ところが、英語の場合は〝I〟ばかりです。そのために、アメリカ人やヨーロッパ人は利己主義だという人がいますが、これは大きな間違えです。≫
 ≪これからグローバリゼーションの時代には、外交官を通して国と国が交わる以上に、皆さん一人ひとりがインターネットなどを通じて外国と付き合うことになりますね。その時に、「私は」ということで、パッと通じるような「個」というものをある程度持っていなければ、日本人はどんどん失敗することになる。今までも、日本人は実際に、外交でもビジネスでも学者の世界でも、そういう点で随分損をしたり、誤解をされたりしていると思います。≫
 ≪ところが、そこで出てきたのが、そんなことばかり言っていたら日本人のアイデンティティーはどこに行くのかという批判でした。日本人がアメリカと一緒になる必要はないではないかという考え方なんですね。でも、私が言っているのは個を確立するということなんです。≫
 ≪私が好きなエリクソンの言葉の中に、「アイデンティティーとはこういうものだと言えるようなものではない」というものであります。むしろ、生涯にわたって続く無意識的な成長の過程、プロセスこそがアイデンティティーであるという言い方をしているんです。つまり、「私はこういうものだ」ということを、一生にわたって作っていくということです。
 だから、ここに日本人のアイデンティティーというものがあって、それに何かをパッと継ぎ足そうというのではない。そうではなくて、日本人のアイデンティティーをみんなで作っていこうということなんです。≫
 ≪(これは)実際はすごく難しい。なぜかと言えば、先ほどから言っていますように、日本人はむしろ個を確立しないように生きて来たからです。そして、この考え方は仏教の中ではますます強いものになってきます。≫
 ≪子供の時に読んだ仏教説話の中に、ある旅人が小屋の中で雨宿りをしていた時のことです。一匹の鬼が死体を担いでその小屋に入ってきた。そして、鬼がこれから死体を食べようとしているところへ、もう一匹の鬼がやってきました。すると、後から来た鬼が、「この死体は俺のものだ」と言い出したんです。最初の鬼が「この死体は俺が運んできたものだ」といい返しますと、後から来た鬼が「どこにそんな証拠があるんだ」と言い張ります。それで最初の鬼が、震えている旅人に向かって、「我々二人の中で、この死体を担いできたのはどっちなのか言ってみろ」と聞いたんです。旅人は怖いけれども本当のことを言わないといけないと思って、「こちらの鬼様が担いできました」と答えました。
 すると、後から来た鬼が怒って、旅人の右手をちぎって投げてしまった。旅人が痛いと思ったら、すかさず最初の鬼が死体の右手を旅人につけてくれたんです。助かったと思った瞬間に、今度は左手をちぎられ、すぐにまた死体の左手をつけられた。同じようなことを次から次へと繰り返しているうちに、旅人の体はすっかり死体のものと入れ替わってしまったんですね。そのうちに鬼も疲れてきて、この死体を半分ずつ食べることにしようということになって、食べ終わると二匹の鬼は出ていってしまった。
 旅人は「助かった」と思ったけれど、自分がだれなのか分からなくなってしまいます。自分は前からいた旅人なのか、それとも、死んでいた死体なのか。そこで、この旅人は偉いお坊さんの所へ行って、「私は元からの私ですか、それとも死体ですか」と尋ねるんです。その時にお坊さんは、「私などというものは初めからなかったのだ。心配しなくてもいい」というのです。要するに、仏教的にいえば個の確立というものはない。私などというものは、そもそも存在しないというのが仏教の捉え方なんです。≫
 ≪(仏教の)お経を読んでいてとても眠くなったことがあります。≫≪でも、「これはすごいな」と思った瞬間に、私はハッとわかったんです。お経というのは読むものではなくて、唱えるものなんです。しかも、鳴り物入りで唱えますから眠られないんです。≫≪これは、実はお経を唱えることによって、普通の意識とは違った、別の意識の方にだんだん変えていっているんです。普通の意識というのは、皆さんが今持っている意識のことです。ここに一輪の花があれば、花は花だし、花は一つしか見えないし、花の色はその通りの色でしょう。でも、意識が違ってくると、これがだんだん違った世界に見えてくる。たとえば、私がここで梅干をガリガリ食べ始めれば、それをみているだけで唾液が出てくる人もいると思います。あるいは、誰かがここで足をパンッと蹴られれば、それを見ていて「痛い」とか「ギャー」と思う人はいっぱいいると思います。「この人が足を蹴られているだけじゃないか」と考えて、フーンとみていられる人は非常に少ないはずですよ。これは、私と皆さんがつながっている状態を、もっとつながっている意識で見ようとすること。それが、普通の意識とは違う別の意識ということです。坐禅をするということはそういうことをやっているのですね。≫
 ≪(フワーとして眠たくなって意識が不明瞭になってはだめで)明晰性を失わずに、意識がどんどん変わっていくと、いろいろなものが一緒になってつながっている世界がはっきり見えてくる。そうやって、ずっと意識を下げていって、しかも明晰性を保っていると、すべてのものが融合してくるんですね。そして最後には、「花」とか「河合」といいうような名前もついていない、「存在」そのものの世界にまで降りていく。それを明晰に認識できるようになるんです。反対に、その「存在」そのものが普通に現れてくると、花というものになって現れるし、河合というものになって現れてくる。≫
 ≪西洋流にいえば、「ここに花が存在している」とか「ここに河合が存在している」ということを、東洋的な意識で表現すれば、「これは存在が話している」とか「これは存在が河合している」というようになる。これを、「存在(Being)はフラワシング(Flower-ing)をやっている」とか、「存在(Being)は今、河合イング(kawau-ing)をやっている」というふうに英語で話すと、外国人たちは喜ぶんですね。西洋では「花が存在する」と言いますから、「存在する」という方が熟語になって、「花」が主語になっています。ところが、東洋的にいると「存在」の方が主語になってくるわけです。≫
 ≪そうなると、物事を観察する態度も変わってきます。「河合が花を観察している」という西洋流の態度が、東洋流にいえば「あなたは花してますね。私は河合してますよ」ということになる。そうすることで、花と河合とが一歩近寄ることができるんです。要するに、世界を見る見方が西洋と東洋では随分違っています。西洋では世界を切り刻んで見るのに対して、東洋では世界をつなげて見る。全く正反対なんです。≫
 ≪西洋で発展した自然科学の考え方は、世界を切り刻んで花を観察し、花を切り刻んで分子を観察し、分子を切り刻んで原子を観察し、原子を切り刻んで電子を観察するというやり方です。世界を操作するには、こういう考え方が有効ですね。だから、世界をスッパリ切ることを根本とする科学技術が世界中を席巻してきたわけです。
 ところが、先程も言いましたように、我々は科学技術だけでは暮らすことができない。例えば、交通事故のために自分の恋人が目の前で死んでしまったという人が私のところへ来られました。その人は、完全に気持ちが沈んでいて、生きていく気持ちもなくなっています。その人が、「なぜ、あの人は死んだのでしょうか」と聞かれるんです。
 これに対して、自然科学では簡単に答えることができますね。「あれは出血多量でした」と答えればいいわけです。けれども、それではその人が聞きたいことの説明になっていない。その人は、「なぜ、私の恋人が」ということを聞きたいんです。つまり、関係の中でも答えが欲しい。でも、関係の中で答えるということを自然科学はやらないんです。
 もっと端的にいうと、私の死を自然科学は説明できない。私はなぜ死ぬのか。いかに死ぬのかという問題を、自然科学が説明することができないんです。このことを、柳田邦夫さんがしばしば強調されています。自然科学や科学技術は、三人称の死、つまり、人間が死ぬということを語ることはできる。ところが、二人称の死や一人称の死を語ることはできない。それは、宗教にしか語ることができないのです。そうすると、そうしたつながりの中で物事を考えるという仏教的な考え方は、とても素晴らしいことなのですね。ものすごく洗練されているんです。≫
 ≪私の専門は臨床心理学ですが、アメリカやヨーロッパへ行った時には、臨床心理学の分野でしばしば仏教の話をしています。それはなぜかというと、臨床心理学というのは人間とつながっていなければできない。相談に来られた人の話を聞いているときの私の態度は、坐禅や瞑想をやっている人と非常に近くなっていると思うからです。つまり、相手と私が一緒になって、つながっている世界の中で話を聞いている。
 先程言いましたように、「なぜ恋人が死んだのでしょうか」と聞かれた時に、「出血多量です」といったところで答えになっていない。それよりも、この人が恋人の死を悼んでいるならば、私も一緒に悼むことの方が大切なのです。臨床心理学というものは、相手と一緒になって、ある関係の中で世界をどのように見ていこうかということをやっています。ですから、仏教的なものの見方や考え方というものは、すごく面白いのではないか。最近、外国へ行ってこんな話をすると、みんなが関心を持って聞いてくれます。
 例えば、ある人が相談に来られて、「私は学校へ行っていない。嫌でしょうがないんです」という話をされた時に、たいていの人は「なぜ学校へ行かないの」とか、「学校のどこが嫌いなの」というふうに、すぐ聞いてしまいます。でも、そんなことがわかるくらいなら、学校へ行ってるんですね。自分でも、なぜ行っていないのかわからない人がたくさんいるんです。ところが、「なぜかわからないけれど、学校へ行っていない」と答えると怒られるから、無理にでも理由を言おうとする人がいます。けれども、何か理由をつけたところで、その理由が解消されれば学校へ行けるとは限らない。だから、相談に来られた人が「学校に行っていない」と語るのを、ただぼんやり聞いているだけです。それならどうするということを、ほとんど考えずに聞いているんです。先程も言いましたように、われわれの意識のレベルをどんどん下げていって、深いところからもう一度考えなおそうという態度で聞いています。しかも、明晰性は失ってはいません。ここが難しいところなんです。下手をすれば眠ってしまう。相手の話を聞きながら、眠ってしまうすれすれのところでずっと一緒にいるわけです。
ですから、普通の人が見れば不思議に思うかもしれません。「もう死にます」といわれて、「はい」と聞いているだけですし、「私は生きていても仕方がりません」というのを、「はい、はい」と聞いているだけです。そうやって、ずっと聞いていると、「もう死にます」という所まで落ちていった人が、「やっぱり生きよう」と言うようになるんです。しかし、この「やっぱり」が出てくるまでには、かなり下がっていかなければいけません。
 その時に、「もう死にます」という人を前にして、その人との関係が切れたままで、「あっ、そう、死んでくれ」と言っては絶対にだめです。「もう死にます」という人と一緒になって下がっていかなければいけない。でも、一緒に下がっていく時に、次は上がろうとか下がろうとかいうことを考える必要はない。相談に来ている人が話し始めたら、その人の世界に入っていくだけです。そういう態度を、私は長い間の訓練を通して、ようやく身につけてきたんだと自分では思っています。
そうは言っても、あんまり話をしない人が来たらどうするんだと思われるかも知れませんね。実際に、高校生くらいの人は話ができないんです。あれは、別に隠しているわけではなくて、自分でもうまく話せないんです。そういう人は、「僕は高校二年です。学校へ行っていません」といったまま、黙ってしまいます。そうなると、その人と一緒にいることは、なかなかできるものではありませんよ。こちらから話しかけてはいけないとか、自分は黙っていなければいけないと考えて、相手に合わせて黙っているうちに、「今日の昼飯は何にしようかな」なんてこと考えてしまうことだってあります。心がよそへ行って、その場にいなくなってしまうんです。でも、これではいけません。その場で、ずっと沈黙したまま一緒に居なければいけないのです。
ところが、やはりこちらも人間ですから、いつまでもじっとはしていられない。そうなると、心がどこかへ行ってしまうくらいならば、何か話をした方がいいというわけで、「高校二年生でしたね」などと言ってみます。同じことを繰り返しているだけです。
これは、なぜだかわかりますか。下手な人ほど、相手が話していない世界に飛び出して行ってしまうからです。例えば、「高校二年です。学校へ行っていません」と言われて、「ああ、そうですか。お父さんの御職業は何ですか」なんて聞いてしまいます。そして、「父親の職業は大学教授です」という答えが返ってくると、「それは大変ですね。大学教授ではあなたの気持ちがわからないでしょうから」などというように、勝手に物語を作ってしまうんです。人間にとっては、自分で自分の世界を作る方がはるかに楽なことです。でも、それではいけないのです。相手を同じ人間と思って、ずっと一緒にいることが大切なのです。
しかし、その後もやはり会話にはなりません。しばらく沈黙が続きます。そんなことをグニャグニャやっているうちに時間がきてしまいますから、「来週こられますか」と聞いてみるんです。どうせ来ないだろうと思っていると、ニコッとして「来ます」というんですね。「ヘェー、こんなカウンセリングでも来るのかなあ」と思っていたら、その生徒のお母さんから電話がかかってきました。それによれば、その生徒はいつになく晴れやかな顔をして帰ってきたそうです。そして、お母さんが「今日あなたはどういう人にあってきたの」と聞いたら、「あれだけ高校生の気持ちがわかる人はいない」と答えたというんです。おもしろいですね。こちらは何もわかっていない。分かっていることと言えば「高校二年生で、学校へ行っていない」ということくらいです。
けれども、その生徒が言いたかったことは、「自分の心をそれだけ大事にしてくれる人は、ほかにいない」ということだったのでしょう。ですから、その人を大事にするということは、その人の心の中に手を突っ込まないということなんです。「なぜ学校へ行かないの」とか、「お父さんのお仕事は」というように、一番手を入れて欲しくないところへゴチャゴチャと手を突っ込んでおきながら、自分はその人のためにしているんだと勘違いしている人が沢山いますね。でも、私たちはそれを絶対にやりません。それはなぜかと言えば、私の仏教的教養の影響が大きいからだと思います。明晰性を失わないで、意識のレベルをずっと下げていくことで、相手とずっと一緒にいることができるからです。≫
 ≪日本人は日本の伝統の中にいるのだから、日本の仏教的な考えを持っている。けれども、アメリカ人と議論する時には、日本人も個を確立して自分の意見を言える人間になる必要があるのではないかという考え方が浮かんできます。そんな器用なことはできないという人がいるかもしれません。でも私は、それができると思っています。非常に難しいことは事実ですが、何とか頑張ってやってほしい。私自身も、それほど上手ではありませんが、できる限りそうするように心がけています。
 自分の持っている東洋的、日本的、仏教的なすばらしいものを大切にしながら、西洋のよい部分をどんどん取り入れていく。そうすることによって、自分のアイデンティティーを死ぬまでかかって作っていく。私のアイデンティティーとか、日本人のアイデンティティーというものは、こういうものだとか、こうあるべきだなどというものではありません。一人ひとりがどうやって生きていくかということにこそ、本当のアイデンティティーがある。私はそれを「開かれたアイデンティティー」と言っているんです。≫
 ≪まさに、それは明治時代に掲げられた「和魂洋才」に通じます。日本の和の魂を大切にしながら、西洋の才この、つまり、自然科学や科学技術を取り入れていく。「和魂洋才」という考え方は、和魂というものが最初にあって、その上に洋才をポンと乗っけることだと考えている人がいます。でも、それは間違えだと私は思います。そもそも和魂というものは、初めからきっちりとしているものではなくて、だんだん作り上げていくものではないのか。≫
 ≪現在の我々が「和魂洋才」ならば、洋才で和魂を磨こうではないか。つまり、自分は最初から決まりきった和魂を持っていて、そこに新たな洋才を継ぎ足すのではない。自分の持っている和魂がどのようなものかはわからないけれども、その和魂を洋才で磨いていく。磨き上げるとどうなるかもわかりません。それでも、磨いていこうではないか。死ぬまで磨いていこうではないか。そんなふうに、私は考えるようになったのです。
そして、私は、和魂洋才を考えているけれども、洋魂の人は反対に、もう少し和才で磨いた方がいいのではないか。そう考えて、私は外国へ行くと仏教の話をするんです。「日本では、皆さんとは全然違う考え方がありますけれど、これはどうですか」とか、「私は仏教的な考え方を臨床心理学に取り入れているんですが、これが結構役に立っているんですよ」というわけです。≫
 ≪これこそが本当のグローバリゼーションだと思いますね。アメリカ人にもヨーロッパの人にも、もっと東洋のことを知ってほしい。それは、かつてユングが行ったことですけれども、それをもっとやってほしい。そうすることで、彼らは和才で洋魂を磨く。我々は洋才で和魂を磨く。そのように考えることが、閉じられたアイデンティティーではなくて、開かれたアイデンティティーなのだと私は思っています。≫
 以上です。

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