<第52回>仏教の知恵 禅の世界 〔禅と桃おいしい関係 (前半)〕―玄侑宗久

―― 〔その2の1〕禅と桃おいしい関係<前半> ――

<玄侑宗久さんについて>
玄侑宗久さんについては、ここで長々としたご紹介は必要ないとは存じますが、一応念のため。
現役の僧侶(福島県三春町福聚寺・副住職)であられ、かつ、芥川賞作家として、小説、エッセイ、評論など数多く出版をされている傍ら、マスメディアの出演や講演などをこなしておられます。少年期での体験から「死」というものを非常に意識する子どもであった、と述懐されておられ、それが機縁なのか、また、ご実家が臨済宗のお寺(福聚寺)だったせいか、仏教に限らず宗教全般に大変興味を持たれたようです。社会に出てからもいろいろな職業を経験されておられますが、その間一貫して、学生時代から小説には取り組まれていたようです。そして、46歳の時に第125回芥川賞を受賞され、文壇デビューをはたされておられます。数多くの仏教関係、特に禅に関する本をお書きになられていますが、その文章は、その多様な精神遍歴、社会経験の故でしょうか世間目線ではあるが、決して戯気ではない文章で、多くの人の眼を仏教に向かわせておられます。
本稿の「禅と桃おいしい関係」という表題も、氏の真骨頂の表れともいえます。では、さっそく本題に入ります。例によって、≪≫で括った部分は本書の玄侑宗久さんご自身の言葉です。又(※ )で括った部分は筆者の脚注です。

≪私の住む町は福島県の三春と言いまして、三つの春が一緒に来るということから、そういうふうに命名されたといわれております。
梅と桃と桜がほぼ一緒に咲くんですね。一緒と言いましても梅がちょっと早いです。そして、桜がその後に続いて、まだ梅も桜も散らない内に桃も咲き出すということであります≫。
≪日本を代表する春の花木が梅、桃、桜≫で、その中で≪日本人にとっては非常に大事な木≫が桜で、また≪十分にめでられて≫もいるようです。一方、梅ですが≪日本人はとても好き≫な木です。≪「梅の香や 乞食の家も 覗かるる」≫という句がありますが、≪梅の香が乞食の家にも等しく匂ってくる。わりあい庶民的な花というイメージ≫です。
≪しかし、桃というのはどうも褒め方が足りない≫。≪桃というのは一言でいえば無邪気、天真爛漫、疑いもない心というわけですから、ある意味では無垢ということでもあるだろうと思います。
梅とか桜は非常に褒めたたえる歌も言葉も多いんですけども、桃は禅と非常に深い関係にありながらなかなか褒める言葉が少ないということで、あえて今日は禅と桃の関係を取り挙げてみたわけです≫。
≪梅というのはどちらかというと苦労すればする程、寒ければ寒い程強い香を放つというふうに考えられておりまして、また剪定をするのは梅だけですよね≫。≪剪定――つまり基準に合うように整えていく。これは一言でいいますと儒教的であります。頑張って枝ぶりを整えて、形もよくなってみんなに好かれる姿になろうというような考え方が、そこに感じられます≫。
桃には、また不老長寿という側面があり、≪ご存じの桃源郷というものもまた桃畑の先にあった。仏教でいう極楽であります≫。
≪桃は、道教と密接に関係しています。皆さんは、あまり道教の跡形(あとかた)というのを今具体的に感じることは少ないだろうと思うんですが、当初日本が国を整備するのに使った概念というのは主に道教のものだったわけです≫。
≪禅というのは達磨さんが嵩山(すうざん)に籠って始まったとされているわけですが、この嵩山というのは元々道教の聖地でしたから、道教の影響を非常に強く受けているはずなんですね。ところが、時代が下がってまいりますと桃が排除されてどんどん梅になっていく、道教が排除されてどんどん儒教的になっていくということが起こるわけであります≫。
≪この桃に特別な力があるというふうに思われていた≫。≪その特別な力というのは何かと申しますと、先程「枝葉に残る疑いもなし」という道元禅師の歌を紹介しましたけれども、無邪気という言葉で申しました。邪気に対して一番対抗できるのは無邪気なんだという考え方であります。邪気に対して邪気で対応するというのがアメリカとイラクのようなものなんでありますけれども。この邪気が一番弱いのは無邪気さなんだという考え方なんですね≫。
≪禅語で「瞋拳(しんけん)も笑顔を打せず」という言葉があります。シンケンというのは怒りの拳です。怒りの拳も笑った顔は打てない。これは、こっちをすっかり信じ込んでいる無邪気な人が殴れない、ということですね。怒りも萎んじゃうわけです≫。≪これが、日常生活でできたらどんなにか素晴らしいだろうと思うんですね。しかし向こうが怒ってくるとこっちも怒ちゃう、というのが普通でありまして、どんどんそれがエスカレートしていくわけです≫。
日本の≪平安時代、この桃が邪気を払うというのは一般人の常識にまでなっておりまして、例えば『延喜式(えんぎしき)』という本には、大晦日に「鬼遣(や)らい」という行事をしたことが出ています≫。≪この日には鬼をやっつけるために桃の木で作った弓と葦で作った矢を持つ。そして、桃の木の杖を手にして鬼を追いかけたとあります≫。
≪鬼というのは何かというと、中国語では死んだ人のことを言うんです。死者は全部鬼なんです≫。≪よく鬼門(丑寅(うしとら)の方角、北東です)と言いますでしょう。鬼門というのは鬼の門です。鬼の門というのは死者がそっちから出入りするということであります≫。≪亡くなった人が出ますと鬼が来るぞと言って陰陽師なんかが脅したわけで≫、≪その時どうしたかと申しますと、門のところに桃の木を大量に切ってきて、門を塞げ、ということを言ったんですね。桃の木がそこにあると鬼は入れない。邪気が入れない無邪気。それが桃の木だったわけです≫。≪それが発展して、「桃太郎」という話ができるわけです。鬼をやっつけに行くのはなぜ桃太郎なのかというと、桃にはそういう力があるからなんです≫。
中国の≪周の時代にたくさん書かれた詩を集めたのが『詩経』という本であります。これをまとめたのが孔子ですけども、その中に、皆さん多分ご存じだと思いますが、「桃の夭々(ようよう=若く美しいさま)たる灼々(しゃくしゃく=光り輝くさま)たりその花。その子嫁げばその室家(しっか=家)によろしかろう」というような歌があります。若々しい桃のような娘≫。≪とにかくいい娘だということを言いたいわけですね≫。≪無邪気で天真爛漫であるという少女のあり様が褒められているんでしょうね。こういう女の子が嫁げばその嫁ぎ先はおそらく幸せになるだろうということが歌われているわけです≫。
≪皆さんよくご存じの儒教的な考え方からすれば、とんでもないでしょう。無邪気ならいいというもんじゃないでしょう。儒教は礼の教えですから、礼儀作法を学んで、お茶もお花もやっていなければいけない。そういう女の子じゃないと嫁いでからうまくいかないんじゃないかというふうに考えるのが儒教≫。
≪しかし老荘思想から言わせれば、仁義なんて言うものは本来の道が廃れたからそんなもの煩(うるさ)く言わなければならないんだと考えます。「大道廃れて仁義あり」と、『老子』には書かれております。大道が廃れたからこそ仁義が盛んになってくるという≫。≪心が亡くなったから礼儀を必要とすることになってきた≫。≪桃の世界というのはそういう礼儀とか仁義とかそういうものが生まれる前の無邪気で優しいそういう女の子なら、さぞかしいいだろうなと言ってるんですね。大事なのは礼儀作法ではなかろうと、そういう世界であります≫。

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