<第65回>藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第12回ー

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】
※ 今回は「第1章」の2回目です。

―― 坐禅でワープ体験 ――

伊藤比呂美(以下、比呂美) 私の話をしますと、熊本で坐禅を何回かやったんです。(きっかけは)仏教オタクなのに坐禅をやらないのは間違えではないかと。行くとまず、儀式というか、作法を教わるわけです。私は儀式とか作法とかが大っ嫌いでなんです。でも、こうしてああしてといいながら、どんな格好でもいいんですよみたいにも言ってくれ、とりあえず、言われたとおりに坐ってみたんです。40分も坐っていられるかしらと思いながら、最初の10分ぐらいは本当に苦痛で、ずっと考えていた。「ごめんなさい。もうできません」と和尚さんにいうのははずかしいなって、そうしたら鐘が鳴ったんです。ということは、40分が10分だったんです。「何があったんだ?!」と思いました。ある種のワープ感。テレポート(瞬間移動)。すごい、と思ってもう一度行ったんですよ。そうしたら、またワープ感があった。それだけじゃなくて、終わった後に温泉から上がったような感じがした。全身から力が抜けて、汚いものが出ていってふわあっとなるような。とっても気持ちよかったんです。でも三回目に行ったときには、寝ちゃったんですよね。これはバッド・トリップ(悪酔い)だった。しまったーと思いながらか帰ってきた。ところが四回目に行ったとき、またトリップが起きたんです。何回やってもじっと坐るのはすごくイヤなんです。好きになれない。イヤだなーと思いながら坐っていて、今日は何を食べようみたいなことを考えていて、それでいつの間にかワープできた。これは何だろうと。
まず道場へ行くでしょ。誰もしゃべらない。坐布団があって、自分の好きなところへ行って隣の人に挨拶する。こう坐って、手はこんなふう、目はこんなふうにしてと。「無心とかっていうけど、無心は無理だからいいんですよ」みたいなこと言われて。
藤田一照(以下、一照) 息を数えなさいと言われなかった?
比呂美 言われました。でもつい数えるのを忘れちゃうんです。最初は少し数えているんだけれどすぐ忘れちゃって、今日何食べようかなとかそんなことを考えていて。そうしたら、坐禅をずんぶんやったという友達が面白いことを言っていたのを思い出したんです。こっちにドアがあって、いろいろな考えがどんどん入ってくるって。そうしたら、反対側にドアをつくってどんどん出していけばいい、というんですね。それもそうだなと思ってドアをイメージしていた。そうしたら、雑念がもう土石流ですよ。ごーっと流れ込んできて流れ出ていくんです。ドアをひとつならまだしも、ふたつ作っちゃたら、もうとめどなくなっちゃって、ごーっと流れが途切れることなくずっとつづいていた。いかに私は雑念が多いかということを確認して、ああもうダメだと思ったら、四〇分経っていた。そこでワープしたんですね。だから済んだ瞬間なんてないですよ。ないけど、時間的な短縮感というか、どこかへ行ったような感覚があって。
一照 それって寝ているわけじゃないですよね。
比呂美 起きています。その後も坐禅に足を運んだのは、最初の体験が気持ちよかったから。またああなるといいなと思って出かけるんだけど、まあできたりできなかったり。でも、最初に行ったときは、とにかく何かさがしていたと思います。
一照 坐ったら何か見えるかもしれないとか。
比呂美 わからない。ただ坐禅とか禅とかって何なんだろうというのが、ずっとあったんですよ。うちの娘の合気道の先生が道場で坐禅をやっているんですね。その先生が、坐禅も慣れてくると「向こう側」に行けるときがあるって言うの。私は今、エクササイズにはまっているんですが、それもやっているうちに、ときどき「向こう側」に行ったかなというときがある。エクササイズだから意識ははっきりしているし、地に足はついていますけどね。ぜんぶ終えて、呼吸を整えてストレッチも終わった後、温泉から上がったみたいな「あら? ここはどこ?」という感覚がある。そんなふうな坐禅をやってみたい。
坐禅もまた仏教でしょ。ならば、私が今まで興味を持ってきた仏教とどうつながっていて、どう違うのか。そこが知りたいですね。
一照 坐禅というのは仏教のアプリケーションみたいなもので、仏教を「やる」としたら、その代表が坐禅なんです。「仏教をやったら、それが坐禅になる」といったらいいかな。だから、坐禅することが仏教をやっているという理解がないと、ただわけもわからすじっと座っているだけということになってしまう。そうするといろいろ疑問やら何やらが起こるから、最初からそこの部分はしっかり押さえておいたほうがいいというのが僕の考えなんですよ(坐る前の前以ってのレクチャーが大事)。
比呂美 つまり坐禅は仏教の奥義(おうぎ)みたいな、シッダールタ(㊟ お釈迦様の本名)が何を考えたとか、その考えの一番面白いところに辿(たど)りつくためのものなんですか。
一照 そうですね。比呂美さんの場合は経典から入って仏教にきているけれど、僕の場合はまず坐禅という「行(ぎょう)」に出くわして、経典の勉強は後からきたんですよ。坐禅をやってみて、そこで感じることがあって、それは何だというので経典を読むようになった。
比呂美 「行」って、坐禅のこと?
一照 そう。行っていうのは心身全体を使って実際に仏教を行うこと。仏教には膨大な量の経典が伝わってきている。けれど、それとは別に行法の伝統というのもずっと伝わってきています。坐禅というのはシッダールタさんが菩提樹の下に坐ったのが最初で、それがそのまま、余計なものが混じらずに純粋にまっすぐ伝わってきたのが今の坐禅ということになっています。僕が得度し修行した安泰寺では、あれだけの量のお経(経典)はすべて仏教の脚注であって、仏教の本体は坐禅なんだという考えを教わりました。だから、本体である坐禅をより深く理解するためにお経がある、坐禅あってのお経ということです。

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