1月22日「藤田一照:伊藤比呂美対談〔禅の教室〕ー第12回ー」を受けて

【第1章 私の坐禅は正しい坐禅?】

―― 坐禅でワープ体験 ―― から想を得て。

 この箇所の最初に書かれている「伊藤比呂美さんのような体験」は、「坐禅をやってみたい」という方の多くが経験されることではないでしょうか。
 私ども「市川静坐会」では、「坐禅を体験してみたい」と訪れる人たち(禅宗では「新到者」と言っています)へ、自己紹介書なるものを書いていただいています。その中に「ここに来られた切っ掛けとその理由」という欄があり、静坐会へ来られた動機や理由をお聞きしています(無記でも結構なのですが)。その内容は、それこそ千差万別で、共通するところなどほとんどないにひとしい状態です。
 日本人で坐禅を知らない人はほとんど居られないと思います。けれども、いざ「坐禅てなに?」、「坐禅をやるとどうなるの?」といった中身については、何年か坐禅を経験されている方、あるいは仏教学者でもない限りほとんどの方は知らないと思います。そして、ほとんどの方が、本、テレビの番組や雑誌の記事などのマスメディアの紹介、禅体験者のお話などで、その人なりの禅に対するイメージをお持ちになり来られるのです。それはそうでしょう、よほどのことがない限り、「この道はどこへ向かうのか」、「自分はどこへ行こうとしているのか」を分からずに道を歩き出す人はいないでしょうから。
 そこが問題なのです。これらの情報は全て伝聞であり、その伝聞情報の内容は玉石混淆(ぎょくせきこんこう)であり、必ずしも全部が当を得ているとは限りません。よしんば、的を得た情報を得られたとしても、その先に自分なりの理解として、「自分なりのイメージを持って」来られることに問題があるのです。いざ坐る(坐禅をする)ときに、これらの予備知識、ご自分の先入観を全てその場で‟捨てる”ことができますでしょうか。
 坐禅のほうでは「以心伝心(いしんでんしん)」とか「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉がよく使われます。「以心伝心」については、よく日常でも使われるのでご存じの方も多いと存じます。言葉を媒介とせずに自分の心を相手に伝えることで、禅宗では主に、師匠からその弟子に坐禅の境地(悟り)を伝えることを意味します。また「不立文字」も、これもまた禅宗の言葉で、広辞苑では「悟道(禅の悟り)は文字・言説をもって伝えることができず、心から心へ伝えるものであるの意」とあり、以心伝心とほとんど同じ意味です。
 相手、それは禅の師匠とは限りませんが、その人の心を言葉や文字を介さずに理解するには、自分の心に前以っての知識や判断があっては、それがバリアーになって、その相手の人の心の中の真意をそのままストレートに取り入れることはできません。それではせっかく坐禅を始めても、本当に「禅の神髄」を理解できないことになってしまいます。
 それと、先程書きました伝聞情報には「坐禅をするとこんないいことがあります」、「こんなに役に立ちます」など、これほど直截ではないにしても、いわゆるご利益(ごりやく=その結果として得られるよいもの)を前面に打ち出すものもあるようです。これも坐禅を探求するには邪魔なものです。自分のための「良い結果」を目指して坐禅をしても、結局何も得られないでしょう。坐禅は、そんなご利益を目指してやるものでもありませんし、そんな皮相なものではございません。
 捨てるものが多くて申し訳ございません。でも、「何も持たずに」というのが坐禅では大変大事なことですし、それが、その人が坐禅によって何者かになる一番の道でもあります。このことはいくらここで言葉を尽くしても、お伝えし切れないかもしれません。それが禅の「不立文字」なるゆえんでございます。
 それでも藤田一照さんは、何とかして、その曖昧模糊(あいまいもこ)とした坐禅を伝えようと、禅の部外者である伊藤比呂美さんとの対談を通して、この本を仕上げられたと思います。

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